戦国時代

戦国一の子沢山?前田利家の妻・おまつ(芳春院)が生んだ子供たちを紹介【どうする家康に登場する?】

戦国時代、武家の女性に課せられた役割の一つに「子供を産むこと」が挙げられます。

男児ならば世継ぎ候補、次男以下は戦力増強。女児ならば他家へ嫁がせて両家の絆を結びつける重要な役割を果たしました。

そこで多くの武士たちは子作りに余念がなかったのですが、いくら産めよ増やせよと言われても、伴侶との相性や体質など限界があります。

実際に記録や系図を見ても、一人の女性が生んでいる子供の数は現代とあまり違いません。

子供は天からの授かりものだからしょうがない……そんな中、前田利家(まえだ としいえ)の妻・おまつ(芳春院)は子沢山で知られていました。

果たして何人生んだのか、今回は『寛政重脩諸家譜』より、彼女が生んだ子供たちを紹介したいと思います。

おまつの子は7人?9人?それとも11人?

おまつ

前田利家肖像

前田利家には16人(6男10女)の子供が確認されていますが、その内おまつが生んだとされる子供は以下の7人(2男5女)です。

  1. 長女(前田長種室)
  2. 長男・前田利長(としなが)
  3. 四女(秀吉猶子、宇喜多秀家室)
  4. 五女(浅野幸長許婚、ただし婚前に早逝)
  5. 次男・前田利政(としまさ)
  6. 七女(長岡忠隆室⇒村井出雲室)
  7. 十女(生母以外記録なし)

おまつのほか、利家の妻妾には山田氏、上木氏、某氏(一人の女性とは限らない)がいました。

また史料によっては次女・蕭姫(しょうひめ。中川光重室)や三女の摩阿姫(まあひめ。豊臣秀吉側室)らも“おまつ”の子とされ、その場合は2男9女の11人を生んだことになります。

一人の女性が7人生むだけでも、充分すごいことですけどね。それでは一人ずつ見ていきましょう。

長女・幸姫(こうひめ)

母は直吉が女。家臣前田対馬守長種が妻。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百三十一 菅原氏 前田

永禄2年(1559年)6月7日生~元和2年(1616年)4月18日没

尾張国の下之一色城主・前田長種(ながたね)に嫁いだため、一色殿とも呼ばれました。

ちなみに彼女を出産した時、母親のおまつは12歳。満年齢で11歳11か月、現代なら小学校6年生という年齢差です。

現代の感覚では、ちょっと考えられませんね。

長男・前田利長(としなが)

おまつ

前田利長肖像

※長すぎるため、引用は割愛

永禄5年(1562年)1月12日生~慶長19年(1614年)5月20日没

若い頃から織田信長に仕え、父と共に武功を重ねました。父の死後、関ヶ原の合戦において実弟の前田利政(後述)と争い、加賀百万石を勝ち取ります。

男児がいなかったため、異母弟の前田利常(としつね)を養子に迎えて隠居しました。

四女・豪姫(ごうひめ)

母は長女におなじ。豊臣太閤秀吉の猶子となり、備前中納言秀家に嫁す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百三十一 菅原氏 前田

天正2年(1574年)生~寛永11年(1634年)5月23日没

幼くして父の盟友である羽柴秀吉(はしば ひでよし)の養女に出され、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の元へ嫁ぎました。

やがて宇喜多家が没落するとキリスト教に救いを求め、洗礼を受けてマリアと改名します。

五女・与免姫(とめひめ)

母は上におなじ。浅野紀伊守幸長に婚を約し、いまだ嫁せずして卒す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百三十一 菅原氏 前田

天正5年(1577年)生~没年不詳

浅野幸長(あさの よしなが。浅野長政の子で1歳年上)と婚約していましたが、幼くして世を去ってしまいました。

※名前の読みは諸説あり。与=「よ」とも読めますが、ここでは与を「~と」と読ませる説を採用しています。あるいは「むた(与)に(=共に)」から頭文字をとって「むめ(=梅)ひめ」と読ませたのかも知れません。

次男・前田利政(としまさ)

おまつ

前田利政肖像

※長すぎるため、引用は割愛

天正6年(1578年)生~寛永10年(1633年)7月14日没

先述のとおり関ヶ原の合戦で実兄・前田利長と争って敗れ、改易されてしまいます。

後に徳川家康から10万石を与える打診があったものの、これを辞退しました。家康に仕えるのがよほど嫌だったようです。

七女・千世姫(ちよひめ)

母は長女におなじ。長岡与一郎忠隆が室となり、のち家臣村井出雲某に嫁す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百三十一 菅原氏 前田

天正8年(1580年)5月7日生~寛永18年(1641年)11月20日没

慶長2年(1597年)に長岡忠隆(ながおか ただたか。細川忠興の嫡男)と結婚。しかし関ヶ原合戦を前に実家へ逃げ帰ったことにより、細川家の不興を買ってしまいます。

さらに前田家が保護してくれなかったのでやむなく離婚。慶長10年(1605年)に村井長次(むらい ながつぐ)と再婚しました。

母のおまつから最も可愛がられたと言われ、そのことから千世姫が末っ子だったと考える説もあるようです。

十女・実名不詳

母は長女におなじ。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百三十一 菅原氏 前田

生没年不詳

ただ、おまつの子(母親は長女と同じ)とのみ記されています。幼くして亡くなったのでしょう。

終わりに

以上『寛政重脩諸家譜』に記されたおまつの子供たちを紹介してきました。

ちなみに、おまつの子である説がある次女と三女は以下の通りです。

女子(蕭姫)

母は某氏。家臣中川武蔵守光重が妻。

女子(摩阿姫)

母は某氏。豊臣太閤秀吉の侍妾、のち万里小路大納言充房が室となる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第千百三十一 菅原氏 前田(カッコ内は筆者による注記)

ところで、NHK大河ドラマ「どうする家康」に前田利家は登場しないのでしょうか。

秀吉の盟友であり、また家康も一目置く重鎮として活躍していた利家の姿が見えないのは、ちょっと寂しいですね。

さすがに子供たちはともかく、利家とおまつの夫婦は今後の活躍が期待されます。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第六輯』国立国会図書館デジタルコレクション
  • 小和田哲男『戦国の女性たち 16人の波乱の人生』河出書房新社、2005年9月
  • 岩沢愿彦『人物叢書 前田利家』吉川弘文館、1988年10月
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角田晶生(つのだ あきお)

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