どうする家康

駿府陥落!今川氏真を見限り武田信玄に寝返った朝比奈信置その後【どうする家康】

時は永禄12年(1569年)、駿河国へ攻め込んできた武田信玄(演:阿部寛)の猛威を前に、多くの家臣たちが今川氏真(演:溝端淳平)を見限りました。

第12回放送「氏真」では三浦、朝比奈、葛山らが批判されており、今回はその一人である朝比奈信置(あさひな のぶおき)を紹介したいと思います。

武田に寝返った後、どのような生涯を辿ったのでしょうか。

信玄から厚く信頼を得たが……

信置 藤三郎 三郎兵衛 兵衛大夫 駿河守
義元をよび氏真に仕へ、しばしば戦功あり。氏真没落ののち、武田信玄に属し、駿河国志太、富士、庵原、安部の四郡及び駿甲の内数所を領し、駿河国持船の城に住す。のち諱の字を與へられて信置と称す。天正十年織田右府大軍を発し、甲府をせむ。このとき勝頼が骨肉の臣右府に属するもの多しといへども、信置節を守て降らず。二月東照宮諸将に命じて持船の城を攻したまふ。二十七日勝頼が軍しばしば利をうしなふときゝて、和議を請ひ、二十九日酒井左衛門尉忠次、石川伯耆守数正、ならびに御目付酒井作左衛門某に城をわたし、妻子を庵原にすてをき、その身は甲府に赴て勝頼に属せむとするのところ、中途にして勝頼すでに生害するときゝて、庵原にかへり、四月八日つゐに信長がために自殺す。年五十四。法名堅雪。今の呈譜、天嶺道■堅雪斎 庵原西ガ村の一乗寺に葬る。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百五十四 藤原氏(良門流)朝比奈

武田信玄(晴信)。歌川芳員筆

【意訳】今川義元(演:野村萬斎)と氏真の二代に仕え、しばしば戦功を上げたが、氏真の暗愚を見限って武田信玄に寝返る。
その恩賞として駿河国の志太郡・富士郡・庵原郡・安部郡ほか数か所に所領を賜わり、持船城(静岡県静岡市)を与えられた。
信玄からの厚く信頼を受けて信の字を賜わり、信置と改名している(それまでの名は朝比奈元長と言われるが、元長は信置の父とも言われる)。
しかし信玄が亡くなって武田の家運も次第に傾き、天正10年(1582年)には織田信長(演:岡田准一)の大軍が武田領へ侵攻してきた。
多くの者たちが武田家を見捨てて織田へ寝返る中、信置は武田への忠義を貫くため徳川家康(演:松本潤)の降伏勧告を拒絶する。
2月に攻めて来た徳川勢をよく防いだものの、2月27日に主君・武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の敗色が決定的と聞いて合流を決意。
徳川勢と和議を結んで酒井忠次(演:大森南朋)と石川数正(演:松重豊)、酒井作左衛門某(さかい さくざゑもん。酒井作右衛門重勝か)らに城を引き渡した信置は、妻子を庵原に残して単独で甲府を目指した。
しかし道中で勝頼がすでに自害したと聞いて庵原に帰り、4月8日に信長の命で自刃して果てたのであった。享年54。

……故あって今川を裏切りはしたものの、二度裏切ったら次はない。そんな悲壮感が伝わってきます。また氏真と違い、勝頼は殉ずるに値する大将と見込んでいたのでしょう。

朝比奈信置の子供たち(男子5人、女子3人)

その法名を堅雪(けんせつ。雪は節≒忠義に通じる)と名づけられた朝比奈信置。その子供たちはそれぞれどのような結末を辿ったのでしょうか。

父と共に奮戦した朝比奈信良(イメージ)

信良 兵衛大夫

今川家に仕へ、のち父信置とともに武田家に属し、天正十年勝頼没落の時、三月甲府にをいて織田信忠がために自害す。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百五十四 藤原氏(良門流)朝比奈より

【寸評】3月時点に甲府で自害しているということは、勝頼を守るために奮戦して捕らわれたのでしょう。信忠は信長の嫡男で、武田征伐の総大将でした。

元永 右京

父信置生害のとき、他国にありて死をおなじくせず。のち豊臣秀次につかへ、秀次ことあるの後、山内土佐守一豊が家臣となる。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百五十四 藤原氏(良門流)朝比奈より

【寸評】たまたま他国に出張していたのか、武田滅亡の巻き添えを免れて豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ。秀吉の養子)に仕えました。秀次が処刑された後は山内一豊(やまのうち かずとよ)に仕えています。

宗利 清三郎 左近

母は飯尾豊前守乗連が女。
父と同じく今川及び武田家に属す。天正十年東照宮駿河国に入御のとき、さきに父信置おほせによりて速に持船城をたてまつりしことにより、めされて御麾下に列し、采地四百石を賜ふ。のち大番の組頭をつとむ。十二年長久手の役に池田勝入が備にすゝみいり、敵とくみ討して首級を得、その身も疵をかうぶる。其後小田原及び関原大坂両度の御陣にしたがひたてまつる。寛永十年二月三日務を辞し、小普請となる。正保四年七月七日死す。年八十五。法名宗利。武蔵国入間郡藤沢の不動院に葬る。妻は岡部次郎右衛門正綱が女。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百五十四 藤原氏(良門流)朝比奈より

飯尾連龍(演:渡部豪太)の甥に当たります(兄二人は母親不明)。武田家の滅亡時に見出されて徳川家康へ仕え、400石を与えられました。

小牧・長久手の合戦や小田原征伐、関ヶ原合戦や大坂の陣でも武功を重ねます。寛永10年(1633年)に隠居して正保4年(1647年)に死去。享年85歳ということです。

信清 藤左衛門

信政 平兵衛

女子 石川氏の妻。

女子 土屋検校圓都が妻。

女子 山岡五郎作景長が妻。

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百五十四 藤原氏(良門流)朝比奈より

あとの子たちは名前か嫁ぎ先が記されているのみ。彼らがどのような生涯を辿ったのか、今後の改名が俟たれます。

【朝比奈氏略系図】

朝比奈俊永-元長-信置-宗利-良明-良豊-良邦-良長-良直-良高-良紹(よしつぐ)……

※『寛政重脩諸家譜』巻第七百五十四 藤原氏(良門流)朝比奈より

朝比奈の家名は宗利の子孫たちによって受け継がれ、江戸幕府に忠義を尽くしたのでした。

終わりに

大名としては滅亡したが、命を永らえて子孫たちに血脈を受け継いだ今川氏真(集外三十六歌仙)

以上、朝比奈信置の最期と子供たちについて紹介してきました。

ちなみに同じ朝比奈でも、掛川城主の朝比奈泰朝(やすとも)は氏真に忠義を貫き、最後まで守り抜きます(ただし、氏真が家康に身を寄せるのは納得いかず出奔)。

大河ドラマでは名前しか登場しなかった脇役たちにも、当然それぞれ葛藤や決断がありました。

そうした一人々々にも思いを致すことで、ドラマ鑑賞により深みが味わえますから、興味を持っていただけたら嬉しいです。

※参考文献:

  • 『寛政重脩諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

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