どうする家康

食べすぎ注意!徳川家康がハマった「鯛の天ぷら」実際に作ってみました!

時は元和2年(1616年)1月21日、徳川家康は京都からご機嫌伺いにやって来た、茶屋四郎次郎(三代目)に尋ねました。

「のぅ、近ごろ都で何か珍しいことはないか?」

「そうですなぁ……そうだ、鯛の天ぷらはいかがでしょう?」

「ほぅ、何じゃそれは」

「鯛を榧(カヤ)の油で揚げ、韮(ニラ)のすりおろしを薬味につけて食うのです」

「ふむ。味の想像がつかんなぁ」

「それがしも前日初めて食わせていただいたのですが、まこと風味もよく楽しめました」

「なるほど……それはぜひ試してみたいのぅ」

するとちょうど今朝、家臣の榊原清久が献上した鯛がありました。

画像 : 今朝水揚げしたばかりの、新鮮な鯛(イメージ)

さっそく調理させたところ、家康は大喜び。

「おぉ、これは美味い。美味いぞ!」

しかし日ごろ食いなれぬ油モノを食いすぎてしまったせいか、家康はその夜、盛大に腹を壊してしまいました。

そもそも75歳という老齢でもあり、家康は大きく体調を崩し、約3ヶ月後ノ4月17日に世を去ることになります。

……という訳で、よく「家康は鯛の天ぷらに中(あた)って死んだ」と冗談めかして伝えられますが、実際は胃がんだったという説が有力のようです。

それにしても、鯛の天ぷらってどんなモノなんでしょうか。家康がハマってしまうほど美味しいのでしょうか。

家康が鯛の天ぷらを食ってから408年の歳月を経た令和6年(2024年)1月21日、鯛の天ぷら作りに挑戦してみたのでした。

今回はその記録になります。

(※当時は旧暦なので、厳密には約1ヶ月のズレがあります)

思い立ったが吉日、さっそく食材を調達してみた

さて、鯛の天ぷらについて記されている『徳川実紀付録(東照宮御実紀附録)』の記述を見ると、調理法は以下の通りです。

……鯛をかやの油にてあげ。そが上に韮をすりかけしが……

1、鯛をカヤの油で揚げる。衣の有無は言及なし。

2、それをおろしたニラで食べる。

うーん、榧の油って、どこに売ってるんでしょうか。スーパーでも売ってないし……。

そう言えば『元和年録』にはこんな記述がありました。

……鯛を胡麻の油にて揚げ候て、ひるをすりかけ候て……

こちらはゴマ油と蒜(ひる)で調理したとのこと。蒜とは大蒜(ニンニク)か野蒜(ノビル)か……ここはニンニク説で行きましょう。

で、天ぷら感を出すために衣はつける方針にしました。

画像 : さぁ、家康が食べたという鯛の天ぷらを作ろう!筆者撮影

以上の脳内会議を経て、近所のスーパーで買い揃えた食材は以下の通り。

一、鯛の切身(刺身用。鮮度が大事)
一、ゴマ油
一、おろしニンニク(チューブ)
一、天ぷら粉

さぁ、これで準備は万端。さっそく調理を始めます。

いざ実食!これは家康も大満足の味わい

画像 : 鯛の天ぷら調理中。筆者撮影

作り方は普通の天ぷらと同じ。天ぷら粉を水でといた衣を鯛の切身につけて、適当に熱した油でいい感じに揚げました。

さぁ、出来上がりです。

ちなみに、塩をかけたような表現はないため、まずはそのまま食べてみました。

ニンニクだけでモノを食べたことがないので、正直「味はするのかな……」と不安でしたが大丈夫。

確かにとても風味がよく、これは家康がついつい食べすぎてしまうのも無理はありません。

ちなみに家康が腹を壊した原因が、鯛や油が古くて傷んでいたのか、食べすぎたのかは不明です。

画像 : 鯛の天ぷらに、おろし大蒜を添えたもの。器の色味を考えればよかった。筆者撮影

ニンニクだけでも、こんなに美味しいんですね。

つけすぎるとマナー的に気がかりながら、ほんの少しつけるくらいで充分美味しく食べられました。

天ぷらは油の片付けが大変ですが、少なめの油で揚げ焼きっぽくしてもいいかも知れません。

とても美味しかったし、鯛もそこまで極端に高い食材でもないので、よかったら一度試してみて下さい!

終わりに

……元和二年正月廿一日駿河の田中に御放鷹あり。そのころ茶屋四郎次郎京より参謁して。さまざまの御物語ども聞え上しに。近ごろ上方にては。何ぞ珍らしき事はなきかと尋給へば。さむ候。此ごろ京坂の辺にては。鯛をかやの油にてあげ。そが上に韮をすりかけしが行はれて。某も給候にいとよき風味なりと申す。折しも榊原内記清久より能浜の鯛を献りければ。即ちそのごとく調理命ぜられてめし上られしに。其夜より御腹いたませ給へば。俄に駿城へ還御ありて御療養あり。一旦は怠らせ給ふ様に見ゆれども。御老年の御事ゆへ。打かへしまたなやましくおはして。はかばか志くもうすらぎたまはず。  君にはとくにその御心を決定せしめられしにや。近臣には兼て御身後の事ども仰られしなり。……

※『東照宮御実紀附録』巻十六「元和二年家康大漸」

以上、徳川家康が食べたと伝わる鯛の天ぷらを作って食べてみたレポートでした。

画像 : 鯛の天ぷら。仲間たちとちょっとずつ、美味しくいただきました。筆者撮影

榊原清久や他の調理人らが罰せられていないことを願うばかり(記録がないので、大丈夫だと信じたい)です。

厳密には違うでしょうが、かつて先人たちが食べた料理を再現してみると、彼らの気持ちが少し解るかも知れません。

これからも、色々試してみたいと思います!

「ごちそうさまでした!」

※参考文献:

  • 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
角田晶生(つのだ あきお)

角田晶生(つのだ あきお)

投稿者の記事一覧

フリーライター。
 
日本の歴史文化をメインに、時代の行間に血を通わせる文章を心がけております。
(ほか政治経済・安全保障・人材育成など)
※お仕事相談はtsunodaakio☆gmail.com ☆→@
 
このたび日本史専門サイトを立ち上げました。こちらもよろしくお願いします。
 
時代の隙間をのぞき込む日本史よみものサイト「歴史屋」
https://rekishiya.com/

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 【戦国一の弓の名手】 内藤正成 ~本多忠勝を「カス」呼ばわりした…
  2. 家康の嫡男・徳川秀忠。「秀」と「忠」はそれぞれ誰から貰ったの?【…
  3. お田鶴の方(演 : 関水渚)は史実ではどんな女性だったのか? 【…
  4. 【どうする家康】 瀬名(築山殿)を自害に追い込んだ武田勝頼の哀れ…
  5. 【台湾の幻のスイーツ】 愛玉(オーギョーチ)とは?
  6. 洋食の歴史について調べてみた「日本初の西洋料理店は?」
  7. 踊り狂ってしまう美味さ!?ビャンビャン麺の漢字について調べてみた…
  8. 中世から存在していた「パティシエ」という職業

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

忠臣蔵(赤穂事件)は、一体いくら位のお金がかかったのか? 〜前編 【赤穂藩の取り潰し費用】

忠臣蔵とは江戸時代中期の元禄14年(1701年)3月14日、江戸城松之大廊下で赤穂藩主・…

徐庶について調べてみた【孔明と同門の幻の名軍師】

武から知の時代への転換期三国志の時代は武将とともに軍師が活躍した時代であり、寡兵でも軍師…

秀吉死去後、豊臣家を守り続けた加藤清正 【二条城の会見】

虎退治で名を馳せた戦国の猛将 加藤清正豊臣秀吉子飼いの武将として、天下統一を最前線で支えた。…

家康の側室・お葉(北香那が演じる)は史実ではどんな女性だった? 【どうする家康】

家康の初めての側室「どうする家康」第10回にて、北香那が演じるお葉という女性が、家康の初めての側…

「LK−99」が本物だったら、どんなことが実現するのか? 【世界を変える夢の物質】

LK-99が大注目2023年に入ってから、『ChatGPT』の話題が頻繁に取り上げられ、…

アーカイブ

PAGE TOP