戦国時代

【戦国時代】 武士が過剰に気にした合戦前の『吉凶』とは 「女に近づいてはならぬ!」

画像 : 錦絵 本能寺焼討之図 public domain

戦国時代はただでさえ戦が多かったうえに、家臣に謀反を起こされる、同盟が覆されるなど、裏切りも日常茶飯事だった。

そのため、「合戦に挑む前にやれることは全部やっておきたい」という気持ちになるのは、ごく自然のことだったであろう。

少しでも縁起を担いでみたり、「凶」とされるものを回避したりと、神頼み的な行動やしきたりも多く存在した。

今回は、合戦前の「吉凶」を判断するしきたりについて触れていきたい。

女性に近づかない

いざ出陣してしまえば、生きて帰れる保証はない。

現代人の感覚ならば「それならば愛しい妻や妾と最後の夜を…」などと連想しがちだが、当時は戦の前に女性に近づくことは「凶」とされていた。

イメージ画像 姫 ※https://app.leonardo.ai/

陣触(じんぶれ)という兵の招集命令がかかった後に、武士たちがまず行うのが「身を清めること」であった。

出陣の3日前から、白衣を着て、魚や肉類も食さず、酒も飲まず、水や湯で沐浴を行い、心身共に清めたのである。

さらに、女性に近づくと身が汚れるとして「妻妾との同衾(どうきん・一緒に寝ること)」は禁止されていた。
つまり熱い夜はおろか、添い寝さえも許されなかったのである。

特に妊婦や出産直後33日間の女性との接触は最もタブーで、これは「血を連想させる」ということが理由であった。
女性の着るものにも触れないほどの徹底ぶりだった。

この当時、女性は「不浄」と考えられていたのだ。

しかし戦国時代後期には、豊臣秀吉が側室の淀殿を戦場に呼んだという逸話もある。
とはいえ、これは天下人の秀吉だから出来たことで、古くから伝わるしきたりを破る武将はほとんどいなかったようだ。

そのため、小姓が寵愛の対象となる「男色」が珍しくなかったのも、このような背景が少なからず影響していると考えられる。

三献の儀

身を清めた後は、連歌会で詠んだ連歌を神社に奉納して戦勝祈願を行った。

そして、出陣の儀式である「三献の儀(さんこんのぎ)」となる。

三献の儀とは、大将が床几(しょうぎ)と呼ばれる椅子に座り、目の前に置かれた3種類の肴で酒を飲む一種のセレモニーである。
この3種類の肴は定型化されていて、「打鮑(うちあわび)」「勝栗(かちぐり)」「昆布」であった。

さらに「打鮑」の切り方も決まっていて、斜めに切って細いところと太いところにして、五切れまたは1切れが用意されていた。
三切れだと「身切れ」となるからだという。

盃は大・中・小と三方に3つの盃が用意され、1つの肴を食べるために盃を3回あおり、合計9回酒を飲んで軍神に合戦の勝利を願う。
これを「三々九度」という。

食べる肴の順番も決まっており「打鮑」は「打つ」、「勝栗」は「勝つ」、「昆布」は「よろこぶ」とかけて「打って勝ってよろこぶ」という、まるで正月のおせち料理のように縁起を担いでいたのである。

北はダメ

戦国時代は「」という方角を、過剰なほど気にしていた。

日本では古くから「北枕」という風習があり、これが影響しているのかと思えばそれだけではなく、「敗北」という漢字から「北」を避けていたという。
ではどうして「敗北」に「北」という漢字が使われているのか?

「北」は人と人が背を向けている様を示し「人に背を向ける」つまり「逃げる」という意味合いを含んでいるのだ。

昔は「北」は「にぐ」「やぶる」と読まれることもあり、現在でも「そむく」「にげる」と訓読みすることができる。
そのため、合戦に着る甲冑は北に向けて置くことをタブーとしていた。

武田軍は、馬から降りる際も「北」の方向に降りることを禁じていたという。

動物による「吉凶」

画像 : イメージ ※高師直騎馬像 public domain

戦国時代に合戦には欠かさない存在であった「」にも「吉凶」があった。

具体的には、人が乗る前に馬が鳴けば「吉」で、人が乗っている時に鳴けば「凶」であった。
もし人が乗っている時に馬が鳴けば、馬の口を押さえるほどだったという。

また、出陣の時に犬が隊列を左から横切れば「吉」で、右から横切れば「凶」。
同じく出陣の時に鳥が自陣から敵陣に飛ぶと「吉」で、敵陣から自陣に飛ぶと「凶」。
さらに大将が乗る船に魚が飛び込めば「吉」とされていた。

旗指物

合戦では様々な種類の「旗指物(はたさしもの)」が使われていた。

画像 : 右から三番目が信長の馬印、十一番目が秀吉の大馬印、八番目が秀吉の小馬印 public domain

武将の位置や働きぶりが把握できる「馬印(うまじるし)」や「旗印(はたじるし)」、兵たちが鎧の背につけた旗「指物(さしもの)」など、相当数の「旗指物」が存在していた。

当然、合戦中にも持ち運んでいるわけだが、旗の竿は竹製なので折れてしまうこともある。
また、経年劣化や強風などで折れる場合もある。

竿自体が折れることに問題はなかったのだが、折れる場所が「吉凶」に影響した。
折れる場所が持ち手の上であれば「吉」で、下であれば「凶」であった。

ちなみに、指物の中でも一番長いとされた「乳付旗(ちちつきはた)」の長さは約3mとされ、持ち手の位置は地面から80~90cm前後と推測される。

当時の平均身長から考えると、ほとんどが持ち手の上で折れただろうから、「吉」の割合が高かったと考えられている。

吉凶を跳ねのけた信玄

今回は5つの「吉凶」を紹介したが、いちいち全てを気にしていれば合戦に集中することは難しかっただろう。

武田信玄は、こうした「吉凶」を跳ねのけたという。

画像 : 武田信玄 public domain

信玄が信濃攻めに取り掛かっていた頃のある日、庭で家臣たちが喜んでいた。

信玄がその理由を聞くと、家臣たちは「庭に1羽の鳩が舞い降りました!これは吉事です!」と嬉しそうに答えたという。

これで戦に勝てると喜んでいた家臣たちを横目に、なんと信玄は吉事の象徴である鳩を銃で撃ち落としてしまったのである。

おどろいた家臣たちに、信玄はこう伝えたという。

このまま鳩が庭に居づくわけではなく、鳩はいずれ飛び立ってしまう。飛び立てば凶事となって家臣たちの心情に影響を及ぼす。だから凶事となる前にその芽となる鳩を撃った

信玄は決して「吉凶」のしきたりを否定しているわけではなかったが、時には即時に非情な決断を下すことも必要だとしたのだ。

参考文献:「信長公記」「甲陽軍鑑」「戦国軍師の合戦術」ほか

 

rapports

投稿者の記事一覧

草の実堂で最も古参のフリーライター。
日本史(主に戦国時代、江戸時代)専門。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. 上杉謙信は生涯2敗しかしていない!?その2敗をあえて掘り下げる!…
  2. 上杉景虎の悲劇 「本当に美男子だったの?戦国時代のイケメン武将」…
  3. 豊臣秀長について調べてみた【豊臣政権を支えたナンバー2】
  4. 本願寺顕如について調べてみた【信長の最大のライバル】
  5. 古宮城へ行ってみた【続日本100名城】
  6. 戦国大名はどうやってお金を稼いでいたのか? 「年貢、鉱山、交易、…
  7. 荒木村重はなぜ織田信長に謀反したのか?
  8. 【戦国最強マイナー武将】可児才蔵はどのくらい強かったのか?「笹の…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

鳥居耀蔵 ~妖怪と呼ばれ江戸庶民から嫌われまくっていた 「遠山の金さんのライバル」

鳥居耀蔵とは鳥居耀蔵(とりいようぞう)とは、老中・水野忠邦の「天保の改革」の先頭に立った…

「爆弾を落とすな」トランプがイスラエルのネタニヤフ首相に警告、蜜月崩壊の可能性

2025年6月、国際社会の注目を集める一報が飛び込んできた。アメリカのドナルド・トランプ大統…

董卓の生涯【三国志序盤最大の悪役】

三国志序盤最大の「悪役」様々な人物が登場する三国志だが、その中でもヒール(悪役)として一…

【三国志最大の悪役】 暴虐の限りを尽くした董卓 ~史実での実像とは

『三国志演義』は、三国時代の英雄たちが割拠する群雄劇であり、史実をもとに大きく脚色された小説…

【光る君へ】歌人としても活躍!ちぐさ(菅原孝標女)が詠んだ和歌7選を紹介

『源氏物語』の熱狂的ファンであり、沼にハマった半生を『更級日記』につづった平安時代の文学オタク・菅原…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP