戦国時代、イエズス会を通じて日本国内にキリスト教が広まり、多くの民衆や大名たちがキリシタンとなった。
その中でも有名なのが、豊後(現在の大分県)を治めた大友宗麟(そうりん)である。※宗麟は後の法号で名は義鎮だが、ここでは宗麟で統一する。
宗麟は、あの有名な宣教師フランシスコ・ザビエルを迎え入れ、自身もキリスト教に傾倒していった。
そして「キリシタン国家を夢見るようになった」という説がある。
大友宗麟とキリスト教は、どのような関係だったのだろうか。
目次
九州北部の支配者だった大友宗麟
大友宗麟は、豊後國を本拠に家督争いを経て豊後、肥後、筑後の三国を継承した。
その後、肥前、豊前、筑前の守護職、九州探題職を得て、九州支配の正当化を確立する。
宗麟が覇を唱えた地域は、今でいう福岡県・大分県・佐賀県・長崎県・熊本県である。
つまり、九州北部から中部の一帯を支配していた大大名であった。
フランシスコ・ザビエルを招き、最先端の医療技術を取り入れる
天文20年(1551年)、宗麟はイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルを府内(現在の大分市)に招き、キリスト教の布教を許可した。
ある日、弟・晴英(はるひで)が鉄砲の暴発で負傷し、南蛮人による治療を受けたことがあった。
その際、宗麟は西洋医療による手当を目の当たりにし、大変感銘を受けたという。
その後、宗麟はイエズス会に府内の土地を与え、孤児院や西洋式病院の開設を認めた。この病院では日本初の外科手術も行われている。
当時の豊後は、最先端の医療技術を持っていたのである。
キリシタンとの間で揺れる宗麟
キリシタン大名として有名な宗麟だが、すぐにキリシタンになったわけではない。
彼は元々、禅宗の熱心な信者であり、家臣の中にもキリスト教を好まない者が多く存在していた。
また、宗麟の夫人は八幡奈多宮大宮司の家系、つまり神官の娘でありキリシタンを忌み嫌っていた。
自身も、永禄5年(1562年)に出家して「宗麟」と号している。
つまり、1551年にキリスト教の布教を認めてから、かなりの年月が経っても禅宗に帰依していたのだ。
こうしたことからも宗麟のキリスト教擁護は、少なくとも当初においては貿易による軍資金の調達など、戦略・政治的な意味合いが大きかったのではないかと考えられる。
実際に宗麟は、「日本で最初の大砲」ともいわれるフランキ砲(国崩し)を、ポルトガルから取り寄せている。
フランキ砲(国崩し)は、当時は極めて先鋭的な武器であり、攻守において大いに役立ったはずだ。
しかし宗麟は、次第にキリシタンの教えに惹かれ、のめり込むようになっていったようである。
神社仏閣の破壊、キリスト王国の設立の野望?
天正4年(1576年)、宗麟は長男の義統(よしむね)に家督を譲り、自らは隠居生活に入った。
家督は義統に継承されたが、この頃はまだ宗麟と義統が共に統治に関わっている二頭政治状態であった。
宗麟の行動が顕著にキリシタン化していったのは、この隠居後からと見てよいだろう。
家に伝わっていただるまを壊したり、毎週金曜日の断食などを始めたのだ。
また、家督を継いだ義統もキリスト教に傾倒していったようである。
天正5年(1577年)当時、日向(ひむか : 現在の宮崎県)の主要部分を支配していた伊東氏が島津氏に敗れ、大友氏に身を寄せた。
この島津氏の北上に対抗するため、大友氏は日向へ軍事侵攻を行った。(天正6年(1578年)3月に第1次日向侵攻、9月に第2次日向侵攻)
この軍事侵攻は、宗麟と義統のどちらが主導したのかは明確ではないが、宗麟は「日向で新たなキリスト教国家を建設することを夢見ていた」という説もある。
宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、以下の記述がある。
国主(宗麟)は・・・日向の国に一つの堅固で、ローマにまでその名を馳せるほどのキリシタン集団を形成する決意でいた。
『完訳フロイス日本史7』
実際に大友軍は、日向への軍事侵攻の際に、現地の神社仏閣を徹底的に破壊している。
仏像や経典の類まで破壊する徹底ぶりだったという。
戦国大名が敵対勢力の神社仏閣を破壊することはめずらしいことではないが、これはキリスト教における「偶像崇拝の禁止」の教えの影響と見るのが自然であろう。
なぜならば前述したとおり、それまでの宗麟はキリスト教を認めつつも本人は禅宗に帰依しており、日本人に多い多神を受け入れる寛容なスタイルであった。
ここまでの偏った行動は、キリスト教への信仰心から生まれたと見てよいだろう。
また、第2次日向侵攻の際には、イエズス会宣教師たち(フランシスコ・カブラル 他)も同行していた。
縣(あがた : 現延岡市)に上陸した宗麟は、拠点を「牟志賀(ムジカ)」と命名して教会を建て、毎日オルガンを奏でたミサを行っていたという。このムジカという名称は、ラテン語の「musica」(音楽)から取ったともいわれ、現在の無鹿(むしか)という地名に、その名残が残されている。
大友宗麟、キリスト教の洗礼を受ける
天正6年(1578年)7月、大友宗麟は、第2次日向侵攻の直前に正式に洗礼を受け、キリシタンとしての道を歩み始めた。
妻とも離縁し、宣教師フランシスコ・カブラルから洗礼を受け、「ドン・フランシスコ」と名乗った。
これ以降、書簡などでも「府蘭」という署名を用いるようになる。
しかし、11月の耳川の戦いで、大友軍は島津軍に大敗を喫し、多くの有力な家臣を失うこととなった。
この結果、領内の各地で国人の離反の動きが加速し、大友氏の領土は減少の一途をたどることになる。
大友宗麟の晩年
宗麟は晩年を、現在の大分県津久見市で過ごした。
島津氏に敗れ、さらに秀吉の傘下となった大友家の勢力は、内部の混乱もあり大きく衰退していた。
天正15年(1587年)、宗麟は58歳でこの世を去り、当初はキリスト教式の墓に埋葬された。
しかし、その後の豊臣秀吉による「バテレン追放令」の影響で、宗麟の墓は仏教式に改装されることとなった。さらに、大友家が義統の所領没収などで衰退すると、墓所も荒廃していった。
しかし、寛政年間(1789~1801年)に、宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊によって自費で改葬が行われた。
その後、昭和52年(1977年)、当時の大分市長・上田保の手によって、現在の津久見市内にキリスト教式の墓が再建され、従来の場所から移設された。
現在残っているのは、この再建された墓である。
最後に
人間の内面は容易に計り知れるものではないが、その「行動」にこそ本心が現れるという点は、昔も今も変わらないだろう。
日向侵攻時に大友軍が現地の神社仏閣を破壊し、宗麟がキリスト教の洗礼を受け、妻と離縁するなどの一連の「行動」や、フロイス『日本史』を見ると、宗麟は当初、経済的利益を求めてキリスト教に接近したものの、次第に信仰に引き込まれていったと考えるのが自然だろう。
ただし、フロイスの『日本史』は、史料としては一級ではあるもののキリスト教視点で記述されているため、宗麟に関しても偏りがある可能性は高い。例えば、キリスト教に好意的だった信長やキリシタン大名は高く評価され、弾圧した秀吉は悪魔扱いである。
このため、フロイスの記述だけをもとに「宗麟がキリスト教国家を夢見ていた」と断定することには慎重さが求められる。しかし、宗麟の晩年の行動を見れば、その説も完全に否定できるわけではないだろう。
もしキリスト教が日本でさらに広まり、受け入れられていたならば、宗麟の評価も歴史的に高まっていたかもしれない。
しかし、江戸時代に入るとキリスト教の弾圧はさらに強まり、宗麟もその影響を受け、仏教式の墓の中で静かに息を潜めることとなったのである。
参考:『フロイス日本史』『戦国のキリシタンたち』
文 / 草の実堂編集部
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