戦国時代の武士達は、主君に対し堂々と批判や諫言をした。
例え命がけであろうと、主君に諫言する家臣達はいたのである。
今回は諫言を厭わなかった家臣達と、その後どうなったのかを何例か紹介してみようと思う。
佐久間信盛は家老の立場から信長に諫言したが…
佐久間信盛(さくまのぶもり)は、「退き佐久間」と呼ばれ、主君・織田信長に兵の退却手腕を評価されていた。
しかし信盛は、次第に信長より疎まれていった。
なぜ信盛は疎まれてしまったのだろうか? 3つの要因があるとされている。
1. 越前(福井県嶺北地方)戦国大名・朝倉義景が自害した戦で、家臣の不甲斐なさを咎めた信長に反論した
2. 家康の伯父・水野信元が裏切るかもしれないと信長に諫言した
3. 石山合戦(浄土真宗本願寺勢力と織田軍との戦い)において積極的に攻撃や謀略を行わず、信長から折檻状(厳しい咎め立てる手紙)を受けた
1では、「自分達ほど優秀な家来はいない」と、口答えし信長を激怒させた。
2では、信盛の諫言で水野信元は殺害され、その領地は信盛のものになったが、水野家の家臣を仕えさせた後に追放というチグハグな事を行った。
3では、石山合戦における信盛の無能ぶりに怒った信長が「高野山で出家するか、戦で華々しく散るか」と選択を迫った。
そして筆頭家老だった佐久間信盛は、事実上の追放という形で、織田家を去ったのである。
諫言の重すぎる代償と云うべきか?
その後、信盛は高野山で平穏に余生を送り55才で死去した。
花房職秀は秀吉を批判し、あわや縛り首?
関白・秀吉の小田原征伐は、関東一帯を支配した北条氏の本拠地「小田原城」を20万以上の大軍で取り囲み、領主の氏政・氏直親子が降伏するのを待つ戦だった。
秀吉は退屈を紛らすために、茶会を開いたり能役者に舞いをさせたりしていた。
そして秀吉が能舞台を開いている時、そばを馬で通り過ぎる武士がいた。
慣例としては馬を降りて通らなければならなかったが、その武士はそのまま通りすぎた。
秀吉の近臣は、直ぐ下馬するよう注意したが、なんと彼は大声でこう返答したのである。
「戦場で能を催し遊ぶ愚かな大将に、何故馬から降りる礼を尽くす必要がある?」
秀吉は、かんかんに怒った。
すぐ、批判した武士の名が突き止められ、宇喜多秀家の家臣・花房職秀(はなぶさもとひで)と知れた。
宇喜多秀家は秀吉に呼ばれ、三度命令を受ける。
1回目は「職秀をしばり首にせよ」と申渡された。
秀家が承知して踵を返すと、秀吉は気が変わったのか秀家を再び呼び戻して「信念を曲げぬ荒武者には切腹」と命令を変更した。
意向を聞いた秀家が去ろうとすると、秀吉はまた気が変わり再度呼び止め、3回目が下された。
秀吉は「大層な言葉で批判をしたあっぱれ者」と花房職秀を殺すには惜しいと助命し、領地加増を秀家に命じたのである。
家臣の家来だったにも関わらず、秀吉が批判を認めた有名なエピソードである。
青年家康が自ら処罰しようとした鈴木久三郎の言い分は?
鈴木久三郎(すずききゅうざぶろう)とは、岡崎城にいた17~27歳の若い家康に、切り捨て覚悟で物申した家臣である。
久三郎の取った行動とは?
家康は、信長から貰った酒や鯉などを大切な客人をもてなすために大事に保管していた。
しかし久三郎はその客用のご馳走を勝手に持ち出し「殿様から頂いた」と偽って皆と飲み食いしてしまったのである。
家康は、凄まじく怒り「自ら成敗する」と久三郎を呼びつけた。
すると久三郎は、主君に意外な返答をした。
「鳥や魚の命が人の命に代えられるとお思いか?人の命を大事にせぬ方が、天下を取れるはずがありませぬ」
家康は久三郎が事件を起こす前に、許可なく禁猟地や城堀で鳥や魚を取った足軽達を牢屋に入れていた。
久三郎は彼らを罰した家康の所業を踏まえて、故意に客人の馳走を飲み食いして見せたのである。
久三郎は身分の高い武士ではなく、下級武士だったと云われている。
彼と大差ない身分の足軽達が、鳥や魚より軽い扱いを受ける事に憤りを感じ、命懸けの諫言をしたのだろう。
意図を理解した家康は、牢に入れた足軽を許し、久三郎を処罰しなかった。
後に鈴木久三郎は、武田軍と徳川・織田軍が激突した三方ヶ原の戦いで窮地に陥った家康の軍配を奪い、身代わりとして敵軍へ突っ込み家康を救い、その後、無事生還したという。
伊木忠次は、死に際を選んで主君に諫言した
主君に諫言する時、場所や時を間違えれば失敗し、散々な結果に終わる。
織田家重臣の家柄に生まれ、信長死後は秀吉、家康と主君を代え姫路藩の初代藩主になった池田輝政には、伊木忠次(いぎただつぐ)という家臣がいた。
ある時、忠次は病にかかって余命僅かとなり「死ぬ前にもう一度主君にお会いしたい」と望んだ。
輝政は忠次の望みを聞き入れ、病床を見舞って「何か言い残した事があるのか?もしあるならば遺言として言い残しなさい」と忠次に言った。
すると忠次は、次の2点を主君に諫めたのである。
・新しい家臣の雇い入ればかりに熱中しないで、昔からの家臣も重用して下さい
・人材を雇い入れる時、安い価値で士官させたと喜ばないで下さい。価値相応に雇い入れてこそ、人は長く忠実に仕えるはずです
戦国武士は、必ずしも同じ主君に仕え続けた訳ではない。
主君を見限り、もっと良い待遇や領地をくれる大名へ士官先をかえる事例は沢山あった。
忠次は、輝政が最も話を聞いてくれそうな場面を選び、代々の家臣と新しい家臣に見限られないように諫言したのである。
老練で用意周到ではないか。
終わりに
戦国時代と江戸時代の武士では、生き方が違う。
そして主君には諫言を受け入れる度量の大きさも必要であった。
戦国時代における自由な意見や批判は、組織の風通しを良くしていた。
下の者の意見を受け入れ、それを上手に取り入れた戦国大名は生き残り、大成した。
現代に於いても、その状況は変わらないのではないだろうか。
参考図書
「国盗り」の組織学
現代にも通じる非常に参考になる記事でした!
ありがとうございます!!
主君の所業を踏まえての、飲み食いからの諫言は、すごい…としか言いようがないですね。
命懸けなのはもちろん、的確で納得のいくこの伝え方も上手い!と思いました。
憤りの中でも、主君に想いを届けるために冷静に考えることもでき、かつそれを覚悟を持って実行できる。
すごい人がいたもんだ。