パーフェクトな息子
徳川信康 とくがわ・のぶやす(竹千代 たけちよ)
[細田佳央太 ほそだかなた]幼名・竹千代。苦労を重ねた両親の姿を幼いころから見ており、父を支え、家族を守り、徳川家のために強く生きようとする、心優しき勇敢な青年。そのまっすぐな気持ちが、危うさでもある。妻は信長の娘・五徳。
幼少期 松平信康 まつだいら・のぶやす[寺嶋眞秀 てらじままほろ]
※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
松平元康(演:松本潤)と瀬名(演:有村架純)の間に生まれた長男・竹千代(演:寺嶋眞秀)。次世代の松平家を担う人材として成長しますが、果たしてどんな生涯をたどるのでしょうか。
今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀)』より、徳川信康(演:細田佳央太)を紹介。NHK大河ドラマ「どうする家康」の予習にどうぞ。
誕生から元服まで
徳川信康は永禄2年(1559年)3月、駿府で誕生しました。
……二年三月北方駿府にて男御子をうませ給ふ。後に岡崎城をゆづらせたまひ。三郎信康君と称したまへるは是なり……
※『東照宮御実紀』巻二 弘治三年-永禄二年「永禄二年信康生」
しばらく駿府で人質となっていましたが、永禄4年(1561年)に元康が鵜殿長照(演:野間口徹)を捕虜にしたので、互いに交換することで取り戻します。
この段取りをつけたのは石川数正(演:松重豊)、巧みな交渉に人々は数正の手柄を賞賛するのでした。
ちなみに母の瀬名と妹の亀姫(かめひめ)については既に岡崎へ戻されており(もちろん無事な状態で)、これで再び松平家の親子4人が全員揃います。
……味方また今川方四郡の城をせめて鵜殿藤太郎長照を生どる。長照は今川氏真近きゆかりなれば。氏真これを愁る事甚だしき様なりと聞て。石川伯耆守数正謀を設け。かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて。若君をともなひ岡崎にかへりしかば。人みな数正が今度のはからひゆゝしきを感じけり……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄四年-同七年「永禄四年元康與信長同盟」
無事に岡崎へ戻って来た竹千代は永禄6年(1563年)、織田信長(演:岡田准一)の娘・五徳姫(演:久保史緒里)と婚約。親同士の政略結婚とは言え、信長がいかに松平家を大事に思っていたかが分かります。
これを面白く思わないのが、松平の旧主・今川氏真(演:溝端淳平)。何とか再び従わせようと何度か戦いを挑みますが、もはや勝ち目はなかったようです。
……六年には信長の息女をもて若君に進らせんとの議定まりぬ。信長かくむすぼふれたる御中とならせたまへば。今川方にはこれを憤り所々のたゝかひやむ事なしといへども。今川方いつも敗北して勝事を得ず……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄年-同七年「永禄六年」
やがて月日は流れて永禄13年(1570年)。元亀元年と改元したこの年の正月、父・徳川家康(松平元康より改名)が浜松城へと本拠地を移転したのをキッカケに、岡崎城を譲られました。
このとき12歳にして、いわば三河一国一城の主。満11歳と言えば小学校5~6年生。凄いですね。
……永禄十三年に号またあらたまりて元亀と称す。浜松の城規模広麗近国にすぐれければこの正月より移り給ひ。岡崎城をば信康君にゆづりすませ給ふ……
※『東照宮御実紀』巻二 永禄十二年-元亀元年「元亀元年家康移于浜松城」
そして同年8月28日、元服して徳川次郎三郎信康(じろうさぶろう のぶやす)と改名。次郎三郎とは「次郎の息子である三郎」を意味する通称で、松平(徳川)家の嫡男が代々襲名してきたものです。
信の字は義父・信長から拝領したもので、織田・徳川両家の絆を結ぶ存在として、大きな期待が寄せられていたことがわかります。
……この八月廿八日若君十三にて首服を加へたまひ。信長一字を進らせ二郎三郎信康となのらせたまふ……
※『東照宮御実紀』巻二 元亀元年-同三年「信康元服」
(※)文中に「若君十三にて」とあるものの、元亀元年(1570年)時点では12歳のはず……こういう年齢の混同が散見されますが、恐らく編者の勘違いでしょう。
武田勝頼を悩ませた見事な采配
さて、信康の初陣は15歳となった天正元年(1573年)3月。松平重吉(まつだいら しげよし。次郎右衛門)の奉行で御甲冑始(おんよろいはじめ。初めて鎧を着る儀式)が執り行われ、さっそく出陣します。
徳川のご嫡男の初陣とあって家臣たちは士気旺盛、たちまち武田方の守備する武節城(愛知県豊田市)と足助城(真弓山城。同市)を攻め落とし、意気揚々と凱旋しました。
……此弥生頃信康君御甲冑はじめ有て。松平次郎右衛門重吉これをきせ奉る。さて御初陣の御出馬あるべしとて。田嶺のうち武節の城を責給ふに。城兵旗色をみるよりも落うせ。足助の城兵も迯うせしかば。御初陣に二の城をおとし入給ひ目出たしとて御帰城あり……
※『東照宮御実紀』巻二 元亀三年-天正二年「信康初陣」
また武田勝頼(演:眞栄田郷敦)との対決・長篠の合戦(天正3・1575年5月21日)では家康と共に陣頭指揮をとり、その鮮やかな采配に勝頼も感心させられたと言います。
……岡崎三郎君この陣中におわして父君と共に諸軍を指揮したまふさまをみて。勝頼も大に驚き。帰国の後その家人にかたりしは。今度三河には信康といふ小冠者のしやれもの出来り。指揮進退のするどさ。成長のゝち思ひやらるゝと舌をふるひしとぞ……
※『東照宮御実紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」
【意訳】長篠の陣中で家康と共に指揮をとる信康を見た勝頼は大層驚き、帰国後に「今度三河に信康という“洒落者”が出て来た。駆け引きの鋭さと言ったら、末恐ろしい敵になるだろう」と舌を振るった(語った)とか。
しかし武田との戦いにそのまま勝ち進んだ訳ではなく、戦況は一進一退。時には退却を余儀なくされたこともありましたが、その時も見事に殿軍(しんがり)を務めて見方を逃がします。
…… 君はこの勢に乗じ引つゞき小山の城を責め給ひしに。勝頼城々責とらるゝと聞て。ふたたび兵をつのり小山の後巻すと聞えしかば。前後に敵をうけん事いかゞなりとて。本道にかゝり伊呂崎をへて引とりたまへば。城兵これを喰留んとて打て出る。御勢大井川のむかふにいたる時。三郎君あながちに乞はせたまひてみづから殿をなしたまふ。 君は上の■まで乗上給ひ後をかえりみ給ひ。信康が後殿のさま天晴なれ。あの指揮のさまにては勝頼十万騎なりともおそるゝにたらずとよろこばせ給ひ。諏訪原の城に入たまふ……
※『東照宮御実紀』巻二 天正三年「勝頼評信康」
信長の命により非業の死を遂げる
信康がいれば徳川家の次代は安泰……と思った矢先。いきなり舅の信長が、信康と築山殿を処刑するよう家康に命じます。容疑は「武田勝頼と内通し、織田家を滅ぼそうと企んだ」とのこと。妻の徳姫が告げ口したのを、激怒した信長が鵜呑みにしたためと言われます。
……信康君もこれ(築山殿の罪。引用者注)に連座せられて。九月十五日二俣の城にて御腹めさる。是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。(平岩七之助親吉はこの若君の御傳なりしかば。若君罪蒙りたまふと聞て大におどろき浜松へはせ参り。これみな讒者のいたす所なりといへども。よしや若殿よからぬ御行状あるにもせよ。そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば。某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ。信長公もなどかうけひき給はざるべき。とくとくそれがしが首をめさるべく候と申けるに。 君聞しめして。三郎が武田にかたらはれ離反すといふを実とは思はぬなり。去ながら我今乱世にあたり■敵の中にはさまれ。たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日彼援をうしなひたらんには我家亡んこと明日を出べからず。されば我父子の恩愛すてがたさに累代の家国亡さんは。子を愛する事を知て祖先の事をおもひ進らせぬに似たり。我かく思ひとらざらんには。などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとすべき。又汝が首を刎て三郎がたすからんには。汝が詞にしたがふべしといへども。三郎終にのがるべき事なきゆへに。汝が首まで切て我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべきとて御涙にむせび給へば。親吉もかさねて申出さん詞も覚えず。なくゝゝ御前を退り出たりといふ。是等の事をおもひあはするに。当時の情躰ははかりしるべきなり。また三郎君御勘当ありしはじめ。大久保忠世に預けられしも。深き思召有ての事なりしを。忠世心得ずやありけん。其後幸若が満仲の子美女丸を討と命ぜし時。其家人仲光我子を伐てこれに替ら志めしさまの舞を御覧じ。忠世によくこの舞を見よと仰ありし時。忠世大に恐懼せしといふ説あり。いかゞ。誠なりやしらず。)かゝることどもにはかなく年もくれて……
※『東照宮御実紀』巻三 天正七年-同八年「信康自害」
信康の傳役(もりやく)であった平岩親吉(演:岡部大)はこれを聞くと、家康の元へ駆けつけて必死に助命を嘆願します。
「謀叛などと、心無き者の讒言(ざんげん。誹謗中傷)にございます。もし若君に悪いところがあるとするならば、それはすべてそれがしの教育不行き届きによるもの。どうかそれがしの首を織田殿に献上し、若君の潔白をお示し下され!」
訴えを聞いた家康は、親吉をなだめて言いました。
「解っておる。わしも三郎が武田と通じておるなどと思ってはおらぬ。しかし、今の我らは敵に囲まれ、もし織田殿と仲違いするようなことがあればたちまち滅ぼされてしまうだろう。息子可愛さに家と国を滅ぼしては、代々のご先祖様に申し訳が立たない。またそなたの首を刎ねたところで、三郎が助かる見込みはないのだから、これ以上恥を重ねたくはない。そなたの忠義は決して忘れぬ」
かくして天正7年(1579年)9月15日、信康は遠州二俣城(静岡県浜松市)で切腹したのでした。享年21歳。
終わりに
以上、徳川信康の生涯を駆け足で辿ってきました。若くして家康の将器を受け継ぐ逸材だっただけに、早すぎる死が惜しまれてなりません。
その一方で、家康が自ら妻子を殺したやましさを糊塗するために信康や築山殿(瀬名)の不行跡を数え上げ、「だから殺さざるを得なかったのだ」と主張する文献等もあります(『松平記』『三河後風土記』など)。
昔から「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と言いますが、このパーフェクトすぎる信康はどのような生涯をたどるのか……大河ドラマのアレンジに注目ですね。
※参考文献:
- 経済雑誌社『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 小和田哲男『詳細図説家康記』新人物往来社、2010年3月
- 歴史群像編集部 編『戦国驍将・知将・奇将伝-乱世を駆けた62人の生き様・死に様』学研M文庫、2007年1月
この記事へのコメントはありません。