時は永禄6年(1563年)に勃発した三河一向一揆は松平家臣団を震撼せしめ、信仰と忠義の板挟みになった結果、家臣のおよそ半分が一揆側に寝返ってしまったそうです。
そんな中、葛藤を乗り越えて主君への忠義を貫き、神仏も畏れず戦った者も少なからずいました。
今回は三河一向一揆で活躍した一人・土屋重治(つちや しげはる)を紹介。果たして彼は、どんな武勲を立てたのでしょうか。
土屋重治プロフィール
土屋氏は坂東平氏の末裔、その祖先は源頼朝(みなもとの よりとも)に仕えた土屋宗遠(つちや むねとお)とのことです。
今の呈譜に、宗遠が十三代の末孫なりといふ。按ずるに、寛永系図にこの家を土屋の第五に収めて、その祖の出所をいはずといへども、家紋もまた同じき時は、兵庫知寿が家と同祖たること明けし。よりて其家の後に移す。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十九 平氏(良文流)土屋
土屋宗遠から13代が重治の父・土屋惣兵衛(そうべゑ。惣兵衛は代々襲名、諱は不詳)ですから、重治は14代目の子孫となります。
●某
惣兵衛 広忠卿につかふ。【意訳】土屋某、通称は惣兵衛。家康の父・松平広忠(演:飯田基祐)に仕えた。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十九 平氏(良文流)土屋
※名前の頭についた●は家督を継いだ印です。
土屋重治は永正11年(1520年)に誕生、若いころから家康に仕えました。特に武功は記されていないものの、家康の初陣以前から今川氏の先兵として戦さ場を駆け巡ったのでしょう。
そんな重治は三河一向一揆の勃発に際して、息子の土屋重信(しげのぶ)・土屋重利(しげとし)と共に家康へ忠義を貫き、一揆の鎮圧に当たります。
各地で戦闘が続く永禄7年(1564年)1月11日、大久保忠勝(おおくぼ ただかつ)や大久保忠世(演:小手伸也)らが守備する上和田砦を一向門徒が急襲。彼らは窮地に陥りました。
「上和田より、増援要請!」
「今は兵が回せぬ、もう少し持ちこたえよ!」
「孤立無援では持ちませぬ、小勢なりとも我らが参りまする!」
重治は僚友の筒井甚六郎(つつい じんろくろう)らわずか10騎ばかりを引き連れて上和田砦へ急行します。
「大久保殿、助太刀に参った!」
「おぉ、土屋殿に筒井殿……かたじけない!」
「者ども、これより撃って出るぞ!最後の力を振り絞れ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
上和田勢は城門を開いて吶喊。さすがの一向門徒も気圧されて後退しました。
「土屋殿、深追い召さるな!」
「大久保殿、心配ご無用じゃ!貴殿らはしばし休まれよ!」
勝ちの勢いに乗じて深追いする重治。しかし針崎野まで来たところで、一向門徒の増援に取り囲まれます。
「一人でも多く道連れじゃ、そなたら冥途の供をせぇ!」
孤軍奮闘の末に重治は討死。享年45歳、法名は桂厳(けいげん)と名づけられました。
一度は一揆側に寝返った説も
●重治
惣兵衛 今の呈譜、惣兵衛のち甚助重次に作る。母は某氏。東照宮につかへたてまつり、永禄六年一向専修の乱に、重治父子岡崎に候し賊兵と戦ふ。七年正月十一日針崎の賊徒上和田の砦を急に攻撃、大久保五郎右衛門忠勝同七郎右衛門忠世等奮戦して疵を蒙り、すでに上和田の砦危くみえしとき、重治及び筒井甚六郎某等をはじめ十騎斗岡崎城より助け来る。忠勝等これに力を得て木戸を開て突戦し、終に賊徒を針崎野までおひしりぞく。このときまた賊徒十六七騎駈加はりて挑み戦ふ。重治これがために討死す。年四十五。法名桂厳。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十九 平氏(良文流)土屋
以上、土屋重治の生涯を駆け抜けてきました。一説には重治が一向一揆に寝返ったものの家康の窮地を見過ごせず、上和田砦の合戦で家康を守って討死したとも言われます。
……正月十一日上和田の戦に賊徒多勢にて攻来り。味方難儀に及ぶよし聞しめし。御みづから単騎にて馳出で救はせ給ふ。その時賊勢盛にして殆危急に見えければ。賊徒の中に土屋長吉重治といふ者。われ宗門に与すといへども、正しく王の危難を見て救はざらんは本意にあらず。よし地獄に陥るとも何かいとはんとて。鋒を倒にして賊徒に陣に向て戦死す……
※『東照宮御実紀付録』巻二「土屋重治見家康危急内応」
信仰を選ぶか、忠義を貫くか……三河武士たちの葛藤が目に浮かぶようですね。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、そんな彼らの心情が見どころになることでしょう。
おまけ・息子たちも壮絶な最期
壮絶な最期を遂げた土屋重治。その息子たちも、それぞれ討死しています。
●重信
甚七郎 甚助 今の呈譜、重俊に作る。母は某氏。東照宮につかへたてまつり、元亀元年六月二十八日姉川の役にしたがひたてまつり、奮戦し創をかうぶる事八所、つゐに戦死す。年二十七。法名祐光。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十九 平氏(良文流)土屋
【意訳】通称は甚七郎、または甚助。一説に土屋重俊とも。母は不明。家康に仕え、元亀元年(1570年)6月28日の姉川合戦で奮闘。八ヶ所の傷を負って討死した。享年27歳。法名は祐光。
●重利
長吉 甚助 今の呈譜重勝に作る。実は重治が二男、母は某氏、重信が嗣となる。東照宮につかへたてまつり、のち本多平八郎忠勝に属ししばゝゞ戦功あり。天正八年 今の呈譜三年 八月二十四日遠江国小山城を攻るの時、力戦し疵三所を蒙りて討死す。年二十五。 今の呈譜年二十 妻は多田慶忠が女。
※『寛政重脩諸家譜』巻第五百四十九 平氏(良文流)土屋
【意訳】通称は長吉、甚助、一説に土屋重勝とも。兄・重信の養子となる。家康に仕え、本多平八郎忠勝(演:山田裕貴)のもとでしばしば戦功を立てた。天正3年(1575年)8月24日の遠州小山城の合戦で三ヶ所の傷を受けて討死した。享年25歳(一説に20歳)。妻に多田慶忠の娘。
さすがに大河ドラマでは割愛でしょうが、こうした忠義の三河武士たちに支えられて、家康は天下を獲れたのだと思いを馳せていただけたら嬉しいです。
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第三輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
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