三河で一番の色男(本人談)
大久保忠世 おおくぼ・ただよ
[小手伸也 こてしんや]
戦場では勇猛果敢な活躍を見せるが、最近、髪が薄くなるのを気にしている繊細な男。身なりに気を配り、「色男」を自称する。面倒見のいいみんなの兄貴。※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
NHK大河ドラマ「どうする家康」、皆さんも楽しんでいますか?
小手伸也さんが熱演中の大久保忠世(おおくぼ ただよ)。制作当局の都合で割愛されているようですが、彼には多くの弟たちがいました。
今回はそんな大久保兄弟を一挙紹介。果たしてみんな色男揃いなのでしょうか。
目次
男子10人、女子2人の合計12人!
『寛政重脩諸家譜』によると、大久保兄弟は以下の通り。
- 大久保忠世(新十郎・七郎右衛門)
- 大久保忠佐(ただすけ。彌八郎・治右衛門)
- 大久保忠包(ただかね。大八郎)
- 大久保忠寄(ただより。新蔵)
- 大久保忠核(ただざね。勘七郎)
- 女子(大河内善兵衛正綱室)
- 大久保忠爲(ただため。彦十郎・権右衛門)
- 大久保忠長(ただなが。甚九郎・甚右衛門)
- 女子(鵜殿平蔵長重室)
- 大久保忠教(ただたか。平助・彦左衛門)
- 大久保忠元(ただもと。彌太郎)
- 大久保九平次(くへいじ。九郎右衛門)
※カッコ内は通称。
確認できる限りで男子10人、女子2人の合計12人。もちろん一人の母が産んだ訳ではないものの、実に大家族ですね。それではさっそく見ていきましょう。
長男・大久保忠世(おおくぼ ただよ)
生没年:天文元年(1532年)生~文禄3年(1594年)9月15日没
父は大久保忠員(ただかず)、母親は右大臣・西三条公條(にしさんじょう きんえだ。三条西とも)の娘。通称は新十郎・七郎右衛門。
大久保家は家康の祖父・松平清康(まつだいら きよやす)の代から仕える譜代の忠臣。三河一向一揆や三方ヶ原の合戦など数々の合戦で武功を立てる。
闘志旺盛で敵に食らいつき、長篠の合戦で敗走する武田勢を追撃する執念深さに織田信長(おだ のぶなが)は「敵にはりついて離れぬ、よき膏薬の如し」と称賛された。
武勇の一方で情けにも篤く、かつて三河一向一揆で離反した本多正信(ほんだ まさのぶ)を保護し、帰参をとりなす等している。
やがて相模国小田原(神奈川県小田原市)に4万5千石を領する大名となった。
次男・大久保忠佐(おおくぼ ただすけ)
生没年:天文6年(1537年)生~慶長18年(1613年)9月27日没
両親ともに忠世と同じ。通称は彌八郎・治右衛門。
兄と共に数々の合戦で活躍するも、生涯無傷という強運の持ち主。
家康の「三大危機(三河一向一揆、三方ヶ原の合戦、神君伊賀越え)」にはすべて立ち会っており、家康は忠佐の強運にあやかって危機を乗り越えられたのかも。
長篠の合戦でも進退するどい采配から信長に気に入られ、以来「長篠のヒゲ」と可愛がられた逸話も伝わる。
後に駿河国沼津(静岡県沼津市)2万石を授かるが、跡継ぎ候補の男児が相次いで夭折。弟の彦左衛門(大久保忠教)に継いで欲しいと頼んだところ「自分の忠功でない所領は受けられない」と辞退されてしまう。
結局、跡継ぎの確保できぬまま世を去り、沼津2万石は召し上げられてしまった。
三男・大久保忠包(ただかね)
生没年:天文9年(1540年)生~永禄4年(1561年)9月13日没
母親は不明。通称は大八郎。幼くして出家、慶典と号していたが武士の方が性に合うと還俗した。
兄たちと共に戦うが、吉良義昭(きら よしあきら)との戦い(藤波縄手の合戦)で討死する。享年22歳、法名は日常。
四男・大久保忠寄(ただより)
生没年:天文16年(1547年)生~元亀3年(1572年)12月22日没
母親は不明、通称は新蔵。三方ヶ原の合戦で討死した。享年26歳、法名は善意。
五男・大久保忠核(ただざね)
生没年:天文20年(1551年)生~天正2年(1574年)4月6日没
母親は不明、通称は勘七郎。武田方の遠江国乾城(犬居城)を攻めた際、城主の天野景貫(あまの かげつら)に奇襲を受けて敗退。追撃する敵を防いで討死する。享年24、法名は乗眞。
長女・大河内善兵衛正綱室
生没年不詳、母親も不明。大河内善兵衛正綱(おおこうち ぜんべゑまさつな)に嫁いだ他の事績は不明。
六男・大久保忠爲(ただため)
生没年:天文23年(1554年)生~元和2年(1616年)8月9日没
母親は不明。通称は彦十郎、権右衛門。天正元年(1573年)に東三河の合戦で初陣を果たし、天正2年(1574年)の乾城攻めでも奮戦。慶長14年(1609年)に石川忠総(いしかわ ただふさ。忠世の孫)が大垣藩主となるとこれに従う。大坂の陣でも従軍する。
七男・大久保忠長(ただなが)
生没年不詳、母親は忠世と同じ(西三条公條女)とのことで、相当な高齢出産と推測される。通称は甚九郎、甚右衛門。その他の事績は不明。
次女・鵜殿平蔵長重室
生没年不詳、母親も不明。鵜殿平蔵長重(うどの へいぞうながしげ)に嫁いだほか、詳しい事績は不明。
八男・大久保忠教(ただたか)
生没年:永禄3年(1560年)生~寛永16年(1639年)2月29日没
母親は小坂氏。通称は平助、彦左衛門。天正4年(1576年)の乾城攻めで初陣、以来兄たちと共に各地を転戦した。
かつて三河一向一揆で離反し、兄・忠世のとりなしで帰参しておきながら、恩を仇で返した(忠世の嫡男・大久保忠隣を改易に追い込んだ)本多正信を激しく敵視。
兄弟随一の偏屈・頑固者として知られ、道理を通すためなら家康にさえ楯突く硬骨ぶりを見せた。
これらの事績は自著『三河物語』に詳しく、三河武士の精神を伝える縁として今日に伝わる。
また誰が呼んだか後世「天下の御意見番」の異名をとり、魚屋・一心太助(いっしんたすけ)との人情物語(後世の創作)が講談・講釈などで人気を博した。
九男・大久保忠元(ただもと)
生没年不詳、母親も不明。通称は彌太郎、そのほか事績については不明。
十男・大久保九平次(くへいじ)
生没年不詳、母親も不明。通称は九郎右衛門(九平次も通称と思われるが、諱は不明)、その他は詳細不明。
終わりに
以上、『寛政重脩諸家譜』より大久保兄弟姉妹12人のプロフィールをたどってきました。お疲れ様です。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」には何人登場するでしょうか。
【大久保兄弟・大河ドラマ登場予想】
大久保忠世……既に登場
大久保忠佐……△(忠世とキャラがかぶりがち)
大久保忠包……×(既に討死)
大久保忠寄……△(討死時、名前が出るか?)
大久保忠核……△(討死時、名前が出るか?)
女子(大河内善兵衛正綱室)……×(たぶん出ない)
大久保忠爲……×(名前くらいは出るか、なぁ……?)
大久保忠長……×(たぶん出ない)
女子(鵜殿平蔵長重室)……×(たぶん出ない)
大久保忠教……○(家康に楯突く場面がぜひ見たい)
大久保忠元……×(たぶん出ない)
大久保九平次……×(たぶん出ない)
あえてストーリーに絡ませるなら、やはり我らが?彦左衛門が本命でしょう。忠佐も出て欲しいですが、難しそうです。
予想が当たるかどうか、色男殿の活躍ともども目が離せませんね!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第四輯』国立国会図書館デジタルコレクション
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