前編では武田信玄がなぜ「西上作戦」を開始したかの経緯について解説した。
後編ではいよいよ始まった「西上作戦」とその後について掘り下げていきたい。
西上作戦のルートの新説
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から出発した。
これまでの通説では、武田軍は2万5,000の大軍勢を率いて「甲府から北上して険しい峠道を通ってから遠江を目指した」とされてきた。
しかし近年の調査研究によって、それまでとは異なる新説のルートが浮上している。
信玄は「甲府からそのまま南下し、東海道を西へと進軍した」という。
通説だった険しい峠道を通らずに、徳川領に最も近い平坦なルートを選択した可能性があるという。
信玄の書状が発見され、そこには
「高天神城を下し、明日陣を進め天竜川を越え、家康の居城・浜松城に向け出馬する」
と記されてあったのである。そして日付は10月21日となっている。
これは従来考えられていたルートでは、あり得ない日程である。
この書状は信玄に従っていた奥平道紋に宛てたとされ、現在地とその後の予定を知らせるものである。
また、別動隊の山県昌景と秋山信友は違うルートを進んでおり、そのルートは「甲府 → 諏訪 → 伊那 → 青崩峠 → 川合 → 長篠」となっている。
つまりこれまで信玄本隊ルートとされてきた道は、実は別働隊ルートだった可能性が高いことが、近年の調査研究によって明らかになってきたのである。
信玄は作戦実行にあたって、馬が3頭並んで走っても問題ないほどの広い道を整備していた。
武田軍は、当時としては考えられない速さで行軍したという。
信玄はあっという間に家康の居城・浜松城の目と鼻の先にまで迫ったが、突如、の要衝である二俣城に向かい陥落させた。
そして用意周到な信玄は、浜松城侵攻のために城の改修や軍事道路の整備を進めた。
この頃になってようやく信長は、信玄の狙いが同盟者・家康の領国にあったことに気付き、烈火の如く怒ったという。
信長が謙信に宛てた書状には「信玄の所業、誠に前代未聞の無動なり、未来永劫信玄と交わることはない」と書いてあったという。
信長はその後、佐久間信盛・平手汎秀・水野信元ら3,000の兵を家康の援軍として派遣した。
万全の体制を整えた信玄は家康の居城・浜松城を目指し、遂に信玄VS家康「三方ヶ原の戦い」の幕開けとなる。
三方ヶ原の戦い
信玄は、信長と戦うまでは兵力の消耗や長期戦を避ける戦術に出た。
家康の居城・浜松城が東西420m、南北250mに及ぶ巨郭と堅固な城であることから、徳川軍を誘い出して戦うことにしたのである。
信玄率いる大軍勢が浜松城を通過し、それに挑発された徳川軍が後を追ったが、武田軍は台地で待ち構えていたのである。
そして12月22日、浜松城から北に5kmほどの三方ヶ原台地で、ついに両軍はぶつかった。
戦いは夕刻に始まったが、徳川軍は武田軍の戦術に翻弄され、2時間ほどで徳川軍は大敗を喫してしまう。
武田軍の死者は200人、対する徳川軍は2,000人以上が死傷したとされている。
家康は武田軍の猛将・山県昌景の攻撃を受け、家臣の夏目吉信が身代わりになっている間に命からがら浜松城に逃げ込んだ。
山県昌景らは追撃したが、家康は浜松城内の混乱を収めてなんとか守りきったようである。(※ここでは空城の計や脱糞した逸話が有名だが後世の創作とされている)
信玄は家康に恐怖を植え付けることに成功し、浜松城から西へと軍を進めたが、なぜか三河には侵攻せずに浜名湖の北岸の刑部で越年した。
信玄の秘策と選択
信玄はなぜ刑部で越年したのか?実はその秘密を紐解く書状が見つかっている。
これは信玄が朝倉義景に宛てたもので
「今こそ信長滅亡の時期が到来したというのに、兵を払って帰国したとは何とも驚くべき話である」
信玄の西上作戦は、浅井・朝倉・本願寺など畿内周辺の反信長勢力と連携し、信長を包囲することが大前提であった。
しかし越前の朝倉義景が、兵を引き揚げてしまったのである。
朝倉勢が兵を引き揚げたことで信長包囲網の一角が崩れたが、信玄には更なる秘策があった。
それは、信玄が将軍・足利義昭と秘密裏に交わした「信長討伐の書状」である。
それまで信長と将軍・義昭の関係は良好で、その状態で侵攻すれば政権に対する謀反であった。
そこで信玄は将軍・義昭を自分の味方につけることで自らの戦いを正当化した。
つまり、信玄の秘策は「将軍・義昭を味方につけ、反信長勢力をまとめ上げる」ことであった。
信玄は刑部に留まり、この後の戦略を慎重に練っていたと考えられる。
予想できる一つ目の策は
「このまま西に進軍するのは得策であろうか?畿内各地の反信長勢力との連携も悪くはない手だが、朝倉のように勝手な行動を取る者がいつ出てくるとも限らない。緊密な連携がなければ包囲網など意味をなさない。だからまずは目の前にいる浜松城の家康を討ち、その後西に向かって信長と決戦に至るのが良いであろう」
刑部で10日間も留まったのは、浜松城を攻撃するためだったという記録も残っている。
もう一つの策は
「わし(信玄)も年を重ね体の不調も目立つようになってきた。この機を逃せば信長を討つことなど未来永劫叶わぬかもしれない。
やはりここは西に向かって行軍を続けるべきではないか?我が軍が快進撃を続けることで様子見をしている武将たちも反信長の兵を挙げるきっかけとなるであろう。更に将軍家が挙兵すればそれに呼応する武将はもっと増えるだろう。このまま兵を進めてそこで信長を一気に叩き潰す」
という作戦だ。
「家康を討つことを優先するべきか?」「西上作戦を続行し信長を討つべきか?」信玄はどちらが得策か熟考したはずである。
年が明けた元亀4年(1573年)1月3日、信玄は西への進軍を再開、遂に三河への侵攻を開始した。
つまり、信玄は家康の浜松城を攻めずに、そのまま西上作戦を続行し信長との決戦を選択したのだ。
突然の撤退と信玄の死
信玄が西上作戦を続行したことで戦局は大きく変わり始めた。
東美濃や近江の国衆、伊勢長島の一向一揆、三河の一向一揆が信長と敵対、そして遂に将軍・義昭も挙兵したのである。
信長に対抗する勢力は、信玄の西上作戦を待ち望んでいたのだ。
信玄軍は東三河の要衝・野田城を包囲した。野田城は小さな城で400ほどの城兵しかいなかったが、信玄はなぜか力攻めを行わずに井戸を破壊する水攻めを行い、2月10日に野田城は降伏した。
野田城攻めに時間がかかった理由は、信玄の持病が急速に悪化したためだとされている。
※「松平記」には信玄が野田城を包囲している際に美しい笛の音に誘われて本陣を出て、鳥居半四郎なる者に狙撃されて負傷したという記述もある。
信玄の行軍が遅くなったことで、信長は2月から反攻に転じる動きに出た。
その後、残念ながら信玄の持病は良くならず、4月には病気療養を目的に武田軍は甲府への撤退を決意する。
そして4月12日、信玄は信濃国駒場で急死した。享年53。あまりにも突然の死であった。
病床にあった信玄は重臣たちを呼び寄せ、うわごとで「明日には我が武田の旗を瀬田に立てよ」と繰り返したという。
琵琶湖の南に位置する瀬田は、古くから東国から京に向かう玄関口であった。
信玄が最期に夢見たのは、信長軍を倒した後に武田の軍勢が瀬田を渡り、華々しく上洛を果たした姿だったのかもしれない。
こうして信玄の西上作戦と信長との決戦は幻となってしまった。
信玄の死によって反信長勢力は瓦解し、信玄の死から3か月後、将軍・義昭軍は信長に敗れて室町幕府は滅亡。反信長勢力の筆頭であった浅井・朝倉軍も信長に敗れ去った。
信玄の突然の死は、反信長陣営の大名たちの命運を大きく左右させた。
その後、信玄の最後の敵となった信長と家康が天下の覇権を握り、時代を切り開いていくことになるのである。
おわりに
武田信玄の西上作戦に対し、長年のライバル・上杉謙信は不吉な予言を語っていたという逸話がある。
「信玄が信長・家康に手を出したのは、まさにハチの巣に手を差し入れたようなもの、今後無用なことを招くであろう」
謙信の予言は現実になってしまったのである。
関連記事 : 武田信玄「幻の西上作戦」 前編~「なぜ家康との今川領侵攻の密約を破ったのか?」
文中の遠近とはどこですか?遠江のことですよね?
修正しました!
ご指摘ありがとうございます!
揚げ足とるなよ、人間なんだから