前編では、生まれた頃から家康に忌み嫌われた六男・忠輝の前半生について解説した。
今回は、忠輝の後半生について掘り下げていきたい。
大大名へ
慶長15年(1610年)彦根藩主・井伊直勝家中で騒動が起き、家康は忠輝に彦根藩50万石もしくは60万石を与えようとしていた。
この頃、越後福嶋騒動が起き、堀忠俊が改易になると、家康はその旧領・越後国高田藩30万石と川中島藩14万石を合わせた45万石を忠輝に与えた。※ただ、石高は文献によって異なり75万石・65万石・55万石・53万8,500石・45万石となっている。
川中島領は附家老の花井吉成に任せ、花井が松代城代となった。
ようやく忠輝は、家康の息子として大名の仲間入りを果たしたのである。
慶長17年(1612年)9月、忠輝は家康からの要請で、しばらくぶりに駿府で面会した。
忠輝は父・家康に多大な領地を与えてくれたことに感謝したという。
越後高田藩に移封した忠輝は、堀氏が築いた福嶋城を居城としたが、海が近く波の音がうるさくて眠れないと、慶長19年(1614年)新たな居城・高田城の築城を計画した。
高田城の築城は、家康の命によって天下普請(※てんかぶしん : 幕府が諸大名に命令して行わせた土木工事)となった。
この築城は出羽国の上杉家と、加賀国の前田家に対抗するためと、諸大名に経済的圧迫を与えるためだったと言われている。
また、佐渡金山を外様大名から守る要所とする理由もあった。
この普請には、前田利常・上杉景勝・蒲生忠郷・真田信之・村上義明・溝口宣勝・仙石秀久・佐竹義宣・南部利直らと、舅の伊達政宗を含めた13人の外様大名が命じられ、総責任者は伊達政宗となった。
3月に始まった築城は、わずか4か月後の7月に完成している。
大坂冬の陣を見据えた家康の命で、石垣をほとんど作らずに急いで完成させたという。
大失態
慶長19年(1614年)大坂冬の陣において、忠輝は江戸の留守居役を命じられた。
剛毅な忠輝はこの命令に不満で、なかなか高田城を出発しなかったが、義父・伊達政宗の促しもあり、渋々この命に従った。
翌慶長20年(1615年)大坂夏の陣には参陣したものの、近江守山で将軍・秀忠の旗本・長坂信時ら2人が忠輝の部隊を追い越したとして、なんと2人を斬り殺してしまった。
当時の軍法では、他の者が自隊に入り込んだ際の刑罰は馬や武具の没収であり、斬り捨ては過剰行為であった。
さらに大坂夏の陣の本戦には遅参してしまった。
そして義父・伊達政宗の後援の下に大和口の総督を命じられたが、豊臣方の真田幸村が本陣に決死隊で突撃し家康が危機一髪だった時に、忠輝は高みの見物をしていたという。
将軍・秀忠の旗本を殺し、本戦に遅参、家康の危機に高みの見物、加えて普段の素行の悪さが重なり、さすがの家康も限界となった。
忠輝は今後の対面を禁じられ、勘当同然となってしまったのである。
元和2年(1616年)4月、家康は病に倒れた。他の兄弟たちは駿府城で家康と対面できたが、忠輝に家康は会うことも駿府城に入ることすら許されなかった。
忠輝は、駿府城近くの禅寺に待機して詫びを入れたが、結局会うことは許されず、そのまま家康は亡くなった。
この時、実母・茶阿局から「乃可勢※野風とも言う」という縦笛を家康の形見として与えられたという。
この「乃可勢」という縦笛は、織田信長から豊臣秀吉、そして家康と天下人が所有した天下の名品だった。
天下の名品を形見として渡したことから、家康が忠輝に会おうとしなかったのはある種の戒めで、父子の情愛は存在していたとも考えられる。
改易と配流
家康の死から3か月後、なんと忠輝は将軍・秀忠から改易を命じられる。
理由は家康の勘当理由とほぼ同じで
大坂夏の陣に遅参
秀忠の旗本を殺害
軍法違反
朝廷に戦果を報告する際に仮病を使って舟遊びをしていた
伊達政宗や、不正蓄財をしていた大久保長安など要注意人物と親しかった
などであった。
他にはヨーロッパ貿易の画策など、兄・秀忠との間に確執が生じていたことは確かである。
実母・茶阿局は許しを請いに奔走したが、それでも許されずに伊勢国朝熊に流罪となった。
その後、飛騨国高山の金森重頼に預けられるが、自ら死を選ぶと忠輝は動こうとしなかった。
しかし金森家でも忠輝を持て余し、信濃国諏訪の諏訪頼水に預け替えとなった。
五郎八姫とは流罪になる前に離縁し、伊達政宗のもとに返している。
忠輝は諏訪の配流屋敷で長年を過ごし、監禁生活ではなかったため、地元の文人たちと交流し諏訪湖で泳いでいたという。
天和3年(1683年)7月3日、幽閉先の諏訪高島城(南の丸)で、92歳という長命で亡くなった。
この時、5代将軍・綱吉の時代であった。
おわりに
松平忠輝が家康から形見としてもらった「乃可勢」という縦笛は天下人の笛と呼ばれ、「野原でひとたびその笛を吹けば、大地から10万の鎧武者が現れる」と言われていた。
正室・五郎八姫がキリシタンだったことから、忠輝が挙兵すれば10万ものキリシタンが味方になることも考えられた。
これに伊達政宗がつけば、将軍・秀忠にとっては脅威となったであろう。
そのために、改易と配流という処分になったのかもしれない。
92歳で亡くなった時も、江戸から検分の役人が遣わされたという。
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当時、双子は畜生腹と言われ、武家に災いをもたらすと言われたが、家康が原因でしょう?
酷い仕打ちですよね、今回の忠輝もこれだけ家康に疎まれたら、きっと双子だったのかも?
結城信康で家康はまだ双子の迷信を信じていたのか?秀忠のためか?だったら伊達政宗の娘を娶らなければ、実は忠輝は兄弟の中で一番の武芸者だった。
秀忠からすれば怖かったんでしょうね。
まったく同感です。一言一句同感、兄の結城秀康は秀忠を立てたが、この男には伊達政宗と10万のキリシタンがいた。
秀忠はビビったのさ、兄の結城秀康で双子でも武家に災いをもたらしていないからね。しかも結城秀康は早死にしたが、こいつは92まで生きたのだろう。
忠輝と忠長を混同してしまう