天下人であった豊臣秀吉は、なかなか跡取りに恵まれなかったが、そもそも「種なし」だったという説がある。
秀吉は多くの側室を抱え、大変な女好きだったことは有名である。しかし、実子が少ないせいで「種なし説」は⾧い間議論の対象となってきた。
令和に入って様々な角度から検証されるようになり、新たな説も出てきているので、今回はどの説が有力なのか見極めたい。
豊臣秀吉種なし説は本当か?
最初に様々な情報を見た上での筆者の見解を述べると、「種なし説」は有力に思える。
これまでの「種なし説」の肯定派と否定派の意見は、主に以下のようになっている。
○豊臣秀吉「種なし説」肯定派の意見
・豊臣秀吉の実子は3人か4人しかいないとされ、側室の数と比べると少なすぎる。
・ルイス・フロイスの『日本史』にも、秀吉は女好きで側室は300人もいたという記述がある。
・『日本史』には他にも、当時から「秀吉には子種がない」と噂されていたことや「鶴松が実子だと信じる者は少なかった」という記述がある。
・萩藩主・毛利吉元が家臣の永田政純に命じて作らせた『萩藩閥閲録』には、「秀頼は秀吉の実子ではなく、淀殿と大野治⾧の間の子」と書いてある。
・服部英雄氏の『河原ノ者・非人・秀吉』において、時系列を考えると秀頼が誕生する10ヵ月前に、秀吉と淀殿は同じ場所にいなかったことが指摘されている。
・江戸中期成立の逸話や見聞を集めた『明良洪範』にも、秀頼は秀吉の実子ではなく淀殿と大野治⾧の間の子と書いてある。○豊臣秀吉「種なし説」否定派の意見
・大坂城の奥に間男が入り込む隙はあるとは思えず、秀吉は単純に子供ができにくい体質だった。
・『萩藩閥閲録』も『日本史』もあくまで当時の伝聞であり、秀吉の夜事情の本当のところはわからない。
・カエサルや徳川綱吉のように、歴史的に有名な女好きでも子供が少ない例はあり、実子が何人かいるのなら種なしではない
・江戸時代には「徳川賛美」と「豊臣罵倒」の流れがあり、その流れの中で出てきた秀吉の悪口の一つである。
このように、秀吉の種なし説を後押しするような史料は存在するが、種なし説の最大の壁とも言えるのが「大坂城の奥に、間男が入り込む隙があったかどうか」なのだ。
この点が解消できれば、「種なし説」はかなり有力となりそうだ。
豊臣秀吉公認の浮気説
服部英雄氏は『河原ノ者・非人・秀吉』において、「秀吉公認の浮気説」を提唱している。
その「秀吉公認の浮気説」とは、以下のようなものである。
「血族を絶やさないようにするための儀式のようなものが存在しており、男女交情の場である参籠(さんろう)が、大坂城や聚楽城で行われた結果、誕生した子供」
「複数と交わり、誰の子供かわからなくさせた」
つまり鶴松や秀頼は、淀殿と複数の男性の間にできた子供ということになってくる。
この仮説が正しければ、奥御殿がいかに厳重でも関係なく、秀頼が実子ではないことは秀吉も承知していたということになる。
ただし、秀吉は独占欲が強い男でもあったので、その命令は側室全員ではなく淀殿にのみ出していたと考えればいろいろと納得できる。
最初の2人は実子だったかもしれない
「公認の浮気説」は、鶴松、秀頼に関してはそれなりに辻褄の合った仮説ではある。
問題は若いうちにできた、子供2人についてだ。
淀殿の子供である鶴松や秀頼については知っている人も多いだろうが、後の2人については知らない人も多いと思うので解説する。
1人目は、羽柴秀勝(幼名 : 石松丸)である。
母親は定かではいが、側室の1人である南殿とする説もある。
秀勝は、1573年に秀吉が⾧浜城主となった30代の頃にできた子供だったが、3歳から4歳で早世したと言われている。
2人目は名前も生年月日も明らかになっていない女児である。母親は同じく南殿と考えられている。
この2人の子供に関しても、非実在説・非実子説など意見は分かれているが、実子説を有力とする史家は多い。
また、秀吉は晩年に何らかの病気にかかり「種なし」になった、または「性行為ができない体になった」ことも考えられる。
つまり秀吉は若い頃は「種あり」だったが、晩年「種なし」になった可能性もあるということだ。
その若い頃でさえも、元々子供ができにくい体質だったと考えれば色々と辻褄は合いそうである。
こちらも十分ありえる話だろう。
参考文献 : ルイス・フロイス『日本史』『河原ノ者・非人・秀吉』他
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