人質の身分から天下人にまで上り詰めた徳川家康。
家康が尊敬していた人物の一人に、源頼朝が挙げられていたのは結構知られた話です。
武家の棟梁として源氏を詐称?した家康は、晴れて頼朝公と同じ征夷大将軍になることができました。
さて、実際のところ家康は頼朝公をどのように思っていたのでしょうか。
今回は江戸幕府の公式記録『徳川実紀(東照宮御実紀附録)』より「家康評頼朝(家康が頼朝を評価する)」の段を紹介したいと思います。
日頃から頼朝公を尊敬していた家康
……常に鎌倉右幕下の政治の様御心にやかなひけむ。その事蹟共かれこれ評論ありし事多し。……
※『東照宮御実紀附録』巻十二「家康評頼朝」
【意訳】家康はいつも頼朝公(右幕下)を尊敬していた。その政治手腕が素晴らしかった為である。
家康は何かにつけて、頼朝公の生涯を振り返っては評論したものであった。
……何だか、現代でもたまにいる「歴史上の偉人を持ち出して朝礼の訓示を行う社長」みたいですね。
「かつて、徳川家康はこう言いました……」
その戦国・江戸時代版と言ったところでしょう。
石橋山で頼朝公を見逃した梶原景時
……頼朝石橋山の戦にうちまけ朽木の中にひそまり居しを梶原景時がたすけしとき。景時ちかごと立て。君もし後日天下の主になり給はゞ。景時を執権職にせられよといひしを頼朝うけがはれぬ。さりながら若悪事もあらむには刑戮に処すべしといはれしは。かゝる艱困の中といへども。大将たらむ人の體面をうしなはざりしは。實に将軍の器といふべし。……
※『東照宮御実紀附録』巻十二「家康評頼朝」
時は治承4年(1180年)8月。石橋山の戦いに敗れた頼朝公は、梶原景時の機転により命を救われました。
「いつか天下を取られたら、それがしに執権を命じられたし」
景時の申し出を頼朝公は快諾。しかしこう言い添えます。
「よかろう。しかし命の恩人とて、罪を犯さば厳刑に処することを忘れるな」
功績に応じて適切に評価はするが、情にほだされて悪事を見逃すようなことはするまい。そんな毅然たる態度に、景時は心服したことでしょう。
味方は一人でも多い方が……七騎落について
又頼朝が七騎落の時。先例あしゝとて一人の供奉を減じたるはいかなる故ぞ。かゝる時は一人にて多きがよきにと仰らる。
※『東照宮御実紀附録』巻十二「家康評頼朝」
さて、石橋山の窮地を脱した頼朝公は、舟で海を渡ろうとします。
その時、御家人が8人いたので一人外すよう命じました。
「亡き父(源義朝)も祖父(源為義)も、落ち延びる時に8人の家臣を連れておったという。このままでは縁起が悪い」
との事。結局みんな無事に生き延びたのですが、このエピソードについて、家康は頼朝公を批判します。
「非常時には一人でも多く仲間が欲しいところ。縁起だなんだと人数を分散したら、全滅してしまうかも知れないではないか」
との事。まったくその通りですね。
それでいいの?陰陽師について
また頼朝陰晴をよく見さだむる者をめし呼て。浮島が原に出て天気を見定しむ。その者天気は見なれし所にては分りやすく。さなき所にてはしれがたしといひしとか。こはいと尤の事なりと仰らる。
※『東照宮御実紀附録』巻十二「家康評頼朝」
頼朝公は陰陽師を呼んで天文を占わせました。
「いつも見慣れた空じゃないので、よく分かりませんでした」
空なんてどこから見ても大して違わなかろうと思いますが、見慣れた空というのもあるのでしょうか。
まぁ、実際によく当てていたので「それなら仕方ないな」と納得するよりありませんでした。
家康も「これはまことにもっともである」と納得したようです。
言われてみれば……家僕への恩賞について
また頼朝姪が小島(原文ママ。蛭ヶ小島)に潜居の時家僕にかたられしは。われもし本意とげて天下の兵権を掌に握ることもあらば。かならず汝に恩禄とらせむといはれしを。その者あざ咲て居けり。後に頼朝将軍職になられてあまねく恩賞行はれしとき。その者の沙汰には及ばざりき。よてその者むかしの事いひ出しに。汝はむかしわが詞を咲ひしをわすれしにやといはる。其者いや某わすれは候はず。さりながらよくかうがへて見たまへ。そのかみよりうき年月さまでたのもしく思ひ奉らぬ主君に。今まで附そひ進らせし某を。はじめより此君に仕へて功名をも立むとおもひし人々にくらべては。某がかたかへりて忠義に候はずやといひしかば。頼朝も理に屈してその者に厚恩を施されしとか。こは其者の詞いと尤なれと仰せられけり。
※『東照宮御実紀附録』巻十二「家康評頼朝」
頼朝公が伊豆国の蛭ヶ島に配流されていた時のこと。家僕にこう言ったそうです。
「余が天下を取ったら、そなたの忠義に報いるため、手厚く恩賞を授けようぞ」
これを聞いた家僕はあざけり笑いました。
天下どころか、伊豆の片田舎にうずくまる流罪人の分際でよく大言壮語できたものだ……。しかし瓢箪から駒で、天下をとってしまったのは周知の通り。
「あの、鎌倉殿。恩賞を……」
「はぁ!?そなたは昔し嘲笑うたであろう!恩賞なんぞやらんやらん!」
普通ならここで「家僕は人を見る目がなかったね」と終わるところ。しかしこの家僕は違いました。
「いいですか?よく考えて下さい。今恩賞にあずかっている連中は、ほとんどあなたが成功してから群がって来た連中です。中にはあなたの挙兵直後は敵対していた奴もいるでしょう。一方、私はどうでしょうか。あなたが何の将来性もない単なる大ホラ吹きの流罪人だった頃から、何やかんやで忠義を尽くしてきたのです。ちょっとくらい家僕に軽口たたかれたくらい、何だってんですか。ここは気前よく恩賞をくれてやって、天下人たる器量を示してやりましょう。ねぇ”佐殿”?」
「……うむむ」
言われてみれば、確かにそうかも知れません。
という訳で、頼朝公は家僕にも恩賞を与えたということです。めでたしめでたし。
終わりに
以上、家康が尊敬していた頼朝公のエピソードを紹介してきました。
リーダーシップ論や帝王学的な話が多いのかと思いきや、以外に人間味あふれるエピソードが多いように感じます。
「百姓は殺さぬように、生かさぬように」の格言?など、冷徹な為政者として知られる徳川家康。もしかしたら、頼朝公の人間味を見習いたかったのかも知れませんね。
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
この記事へのコメントはありません。