大正&昭和

『或る女』のモデル、佐々城信子 ~「魔性の女」とされた波乱の生涯

大正時代、有島武郎が発表した小説『或る女』のモデルとなった女性・佐々城信子(ささき のぶこ)。

彼女は名家の出身で、17歳のときに新聞記者であった国木田独歩(くにきだ どっぽ)と結婚した。

しかし、独歩との結婚生活は短く、半年足らずで離婚に至る。

その後、独歩は自身の作品の中で信子を批判し、さらには作家・有島武郎が『或る女』を発表したことで、信子には「魔性の女」という印象がついてしまったのだった。

本稿では、そんな彼女の生涯をたどり、その実像に迫る。

医師の娘として生まれ、国木田独歩と出会う

佐々城信子

画像 : 佐々城信子 public domain

明治11年(1878)7月、佐々城信子は東京に生まれた。

父・佐々城本支(もとえ)は医師で、日本橋に病院を開院し、母・豊寿(とよじゅ)は日本基督教婦人矯風会の主要メンバーとして、一夫一婦制の推進、廃妾廃娼、禁酒運動などの社会改革に尽力した。

豊寿は進歩的な考えを持ち、新しい価値観を積極的に受け入れる女性であった。
その影響を受けた信子は、アメリカ・メソジスト監督教会が設立した海岸女学校(青山学院の前身の一つ)に学び、母から将来はアメリカで新聞記者になることを期待されていた。

また、豊寿は北海道に土地を購入し、農業経営を行うなど、当時の流行の先端を行く事業にも携わった。さらには、将来的に学校を建設する計画も持っていたという。

明治28年(1895)6月、佐々城家では日清戦争に従軍した新聞記者を招き、慰労のための晩餐会を開いた。

この場に招かれていたのが、『国民新聞』の従軍記者・国木田独歩である。独歩は海軍の軍艦「千代田」に乗り込み、戦況を報じる記事を執筆し、その独特な文体が評価されていた。

晩餐会では、信子が母の勧めで軍歌などを披露した。

その歌声と堂々とした態度、そして17歳になろうとする若さと美しさに、独歩は強く心を惹かれたのだった。

独歩との恋、母の猛反対を受けながらの結婚

画像 : 国木田独歩, 1871 – 1908 public domain

独歩は佐々城家を頻繁に訪れるようになった。

彼は当時、北海道移住を夢見ており、豊寿から移住計画に関する知識を得るなど、佐々城家との関わりを深めていった。また、詩人ワーズワースの作品を熱く語り、信子とともに英詩を口ずさむこともあった。

信子にとって独歩は、これまで出会った男性とは異なる知的で情熱的な存在に映り、次第に惹かれていった。

やがて二人は恋仲となり、明治28年(1895)9月には塩原へ遠出する。

しかし、その直後に信子の父・本支が塩原へ駆けつけ、二人の関係を問いただした。
独歩と信子は、どうにか結婚を認めてもらおうと説得し、本支は最終的に二人の交際を了承した。

しかし、母・豊寿は強く反対した。
豊寿にとって、身分や家柄が違う独歩は、信子の結婚相手としてふさわしいとは思えず、さらに独歩の生活力に対する不安もあった。

それでも、本支からの許しを得た独歩は、信子とともに北海道で新しい生活を始める決意を固め、土地選定のために単身で北海道へ向かった。

一方、信子は母から「無謀な恋」だと諭されるうちに冷静になり、アメリカ留学を目指して勉強しようと考え始める。

しかし、独歩は信子の友人の協力を得て、彼女を両親のもとから引き離すことに成功し、強引に結婚へと持ち込んだ。

豊寿はこの結婚を到底受け入れがたかったが、最終的には「佐々城家への出入りを禁じること」「東京を離れて暮らすこと」という条件のもと、しぶしぶ二人の結婚を認めた。

こうして、明治28年(1895)11月、出会いからわずか5か月で二人は結婚に至った。

しかし、佐々城家からは誰も式に出席せず、名家の令嬢の結婚式としてはあまりにも寂しいものとなった。

独歩との離婚後、スキャンダルに巻き込まれる

結婚後、二人は逗子で新婚生活を始めた。しかし、その暮らしは想像以上に厳しいものであった。

食事イメージ

二人の1日の食事は、米5合にさつまいもを混ぜたものと、豆とわずかな野菜。魚はアジや小ぶりのサバを1尾ずつという質素なものだった。

独歩は「人は見た目ではなく心だ」と語り、精神的向上を目指す生活を理想とした。しかし、彼は信子に自由に使える金銭を与えず、一人で外出することすら許さなかった。

やがて、信子はこうした独歩の生活スタイルに耐えられなり、明治29年(1896)4月、ついに独歩のもとを去り、実家へと戻ってしまう。

独歩としては、信子を幸福にしていたつもりであったため、この突然の別れは衝撃的な出来事であった。

このとき信子はすでに妊娠しており、翌明治30年(1897)に女の子を出産する。
は「浦子」と名付けられたが、戸籍上は信子の妹として登録された後、千葉の乳母のもとへ里子に出された。

信子はその後、しばらく穏やかな生活を送っていたが、明治34年(1901)に両親が相次いで亡くなった。

両親の死後、佐々城家の親族たちは信子の将来を案じ、再婚を検討した。その結果、北海道出身の代議士の息子で、アメリカ在住の森広と結婚させることが決まる。

こうして信子は横浜港から「鎌倉丸」に乗り、アメリカへ向かうこととなった。

画像 : 鎌倉丸(秩父丸)public domain

しかし、この船旅の途中で思いがけない出来事が起こる。

船の事務長・武井勘三郎と出会い、彼と恋に落ちてしまったのだ。

武井にはすでに妻子があったが、信子はそれを顧みず、彼との関係を深めていった。

そしてアメリカに到着した際、婚約者の森広が迎えに来ていたにもかかわらず、信子は「病気で上陸できない」と告げ、そのまま日本へとんぼ返りしてしまったのである。

このとき、同じ船には共立女子大学創立者の一人である鳩山春子が乗っており、この事件を新聞社に報告した。

画像 : 鳩山春子 public domain

翌年、『報知新聞』は「鎌倉丸の醜聞」と題し、7日間にわたる連載記事を掲載する。

そして信子は「良家の令嬢にあるまじき、ふしだらな女」として大々的に報じられ、一躍スキャンダルの渦中の人物となってしまったのである。

独歩と有島の作品が生んだ「魔性の女」のイメージ

明治35年(1902)、国木田独歩は短編小説『鎌倉夫人』を発表した。

この作品の中で、信子を「嘘つきで奔放な女性」として描き、そのイメージを強調した。独歩はほかの作品でも信子を批判的に描き、彼女の人格を貶めるような記述を残している。

そして、明治41年(1908)、独歩は38歳でこの世を去った。

その死後、彼の日記をもとに『欺かざるの記』が出版される。
そこには、信子との出会いから結婚、別離に至るまでの経緯が記されていた。独歩の早世を惜しむ文学青年たちはこの記録を通じて信子を一方的な「悪女」として認識し、彼女に対する風当たりは一層強くなった。

一方、同じ年に信子は武井勘三郎とともに佐世保へ移り、武井が経営する旅館を手伝いながら生活を送った。武井は世話好きな人情家であり、信子を大切に扱ったという。

その後、大正4年(1915)、武井の仕事の都合で東京へ戻ることとなる。

その4年後の大正8年(1919)、作家・有島武郎が、信子をモデルにした長編小説『或る女』を刊行した。

画像 : 有島武郎(Arishima Takeo,1878-1923) public domain

この作品は、明治44年(1911)から雑誌『白樺』で連載していた『或る女のグリンプス』を改作したもので、後半を書き下ろしてまとめられたものだった。

有島が信子をモデルに選んだ背景には、彼女の元婚約者である森広が、有島と親交があったことが影響しているとされる。

この作品によって、信子には「魔性の女」という印象が一層強まることとなった。

そして、作中で主人公が子宮の病気により死の淵に瀕する結末に対し、信子の妹・義江は憤慨し、姉の名誉を回復するため有島との会見を申し込んだ。

しかし、その4年後の大正12年(1923)、有島は既婚女性・波多野秋子と心中し、義江の願いは叶わなかった。

また、『或る女』が刊行された大正8年(1919)、信子は女の子を出産しており「瑠璃」と名付けた。

しかし、2年後の大正10年(1921)、夫の武井が体調を崩し、帰らぬ人となる。

独歩との離婚後も世間からの批判を浴び、ようやく落ち着いた暮らしを手に入れたかと思われた信子は、再び大きな試練に直面することとなったのだ。

真岡での晩年、日曜学校を開き静かな暮らしへ

武井の死後、信子は生活のために素人下宿を営むようになった。

そこに栃木県真岡市の名家・岡部家の跡継ぎである岡部完介が下宿することとなる。やがて、信子の妹・義江と完介は互いに惹かれ合い、結婚に至った。

大正14年(1925)、義江は娘の蘭子を出産するが、間もなく体調を崩し、病気がちとなる。

信子は義江の看病のため、娘の瑠璃を連れて真岡市に移り住んだ。そこで彼女は、近所の子供たちを集めて日曜学校を開き、讃美歌を教えたり、聖書の話を聞かせるようになった。戦争中もこの活動を続け、地域の子供たちにとって大切な存在となった。

しかし、義江の病状は回復せず、入院生活が続いた後、昭和20年(1945)にこの世を去る。信子はその後も、義江の娘・蘭子と自身の娘・瑠璃の教育に尽力し、静かに暮らした。

昭和24年(1949)、信子は71歳で生涯を閉じた。

彼女は国木田独歩と有島武郎の作品によって「多情な悪女」としてのイメージを背負わされ、さらには武井との死別という不運にも見舞われた。

しかし、真岡では日曜学校を通じて子供たちに寄り添い、自分の子と妹の子を育て、地域の人々から慕われながら穏やかな晩年を送った。そして、その数奇な人生に静かに幕を下ろしたのである。

参考 :
阿部光子「『或る女』の生涯」新潮社 1982
中江克己「明治・大正を生きた女性」第三文明社 2015
文 / 草の実堂編集部

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