戦時下の日本において、人々の心の支えとなり輝いていた元祖アイドルがいた。
彼女の名は明日待子(あした まつこ)。
レヴュー劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」のシンボル的存在であった彼女を目当てに、多くの人々が劇場に足を運んだ。
兵士の出征が本格化する頃には、彼女を見に来た出征兵による「万歳三唱」の声が上がるようになり、劇場の風物詩となった。
今回は、元祖“会いに行けるアイドル”として注目を集めた、明日待子の生涯をたどりたい。
女優を夢見て13歳で上京「ムーラン・ルージュ」との出会い

画像 : 明日待子 婦女界出版社『婦女界』第58巻第2号より public domain
大正9年(1920)3月、明日待子(本名・小野寺とし子)は岩手県釜石市に生まれた。
幼少期より日本舞踊や三味線といった芸事に親しみ、早くから女優を志していたという。
その夢を胸に、わずか13歳で上京。新宿の大衆劇場「ムーラン・ルージュ新宿座」を訪れた彼女は、プロデューサーの佐々木千里に才能を見出され、入団を果たす。
芸名の「明日待子」は、「明日を待ち望まれるスターになるように」との願いを込めて、佐々木自身が名付けたものだった。
昭和6年(1931)の大晦日に開場したムーラン・ルージュ新宿座は、軽演劇とレヴューを融合させた大衆劇場である。旗揚げには「新興芸術家」と称される若手作家たちが集い、時代風刺を織り交ぜたユーモアあふれる脚本で、庶民に新たな娯楽の世界を提供した。
学生や文化人からも高く支持され、劇場には常に熱気が満ちていたという。

画像 : 1932年の新宿大通り public domain
舞台の規模や演出は、本場のレヴューに比べて質素ではあったが、そのぶん出演者たちのひたむきさと親しみやすさが魅力となり、観客の心をとらえた。
特に若い女性出演者たちの“未完成さ”が、舞台に独特の温かみを添えていたといわれる。
当時は、俳優の引き抜きが盛んだったこともあり、それを防ぐ目的もあって、子供のいない佐々木夫妻は待子を養女にしたのだった。
ムーラン・ルージュには『ムーラン哲学』という人気演目があり、これは大学教授に扮した俳優や踊り子が、観客に向かって講義をするというものであった。
これに待子が大学の角帽とガウン姿で舞台に登場すると、嵐のような拍手が起こったという。
絶対的センター・明日待子の輝き

画像 : 明日待子写真 public domain
待子は小さくてかわいかったことから、周囲の劇団員から「チィ」と呼ばれ可愛がられた。
当時の文芸部員は、彼女の第一印象について「まったく可憐であり美しかったが、女性としての野心を何も抱かせぬほどに幼かった」と記している。
待子は、素朴で初々しく、人形のような整った容姿を持ち合わせていた。性格も明るく、いついかなる時も笑顔を絶やさなかったという。
舞台ではやがて主役格へと成長し、ムーラン・ルージュを象徴する存在となる。
広告の世界でも引く手あまたとなり、ライオン歯磨、キッコーマン醤油、カゴメ、そしてカルピスなど、さまざまな企業のポスターに登場した。
『初恋の味』のキャッチコピーで売り始めていたカルピスのイメージに、待子はぴったりであったという。
その人気ぶりは、鉄道会社にも波及する。
開業まもない小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)は、週末限定の温泉特急を新宿〜小田原間で運行する計画を立て、沿線案内の音声に待子の声を採用した。
だが、試運転では列車の揺れでレコードの針が飛んでしまい、実用化には至らなかったという逸話も残る。
全国からファンレターが届くほどの人気で、著名な人物では、言語学者・金田一京助、歌人・斎藤茂吉が、待子の追っかけであったという。
刺されそうになっても「神対応」
戦前の東京には活気があった。だが、次第に街の空気は戦争の影に覆われていく。
自由な創作を掲げていたムーラン・ルージュの舞台も、次第に戦時色を帯びるようになり、昭和16年(1941)以降は軍の統制が強まった。敵性語の使用も禁じられ、劇団は『作文館』へと改称を余儀なくされた。
昭和18年(1943)「学徒出陣」が始まる。

画像 : 出陣学徒壮行会(1943年10月21日)public domain
若者たちは学び舎を離れ、戦地へと旅立っていった。
ムーラン・ルージュの客席にも、出征前の学生たちの姿が目立つようになる。
戦地へと旅立つ前の学生たちは、舞台に立つ待子の姿を目にし、感極まって「万歳!万歳!明日待子、万歳!」と声を上げるようになり、それはやがて、劇場の名物になっていく。
それが彼らにとって最後の観劇になると感じ取っていた待子は、涙を浮かべながら客席に降り、一人ひとりの手を握って「ご苦労様。ご武運長久をお祈りいたします」と声をかけて回った。

画像 : 兵と握手をする明日待子イメージ 草の実堂作成(AI)
またある日、街角で出征前の青年兵に、突然銃剣を向けられるという出来事があった。
近くにいた学生の友人が止めに入り、事なきを得たが、待子は恐怖よりも、追い詰められた若者の哀しみを感じたという。
静かに微笑んだ待子の表情に、その青年は深く胸を打たれ、涙を流しながら一礼して立ち去った。
こうした出来事からもわかるように、待子は舞台の上でも日常でも、ファンの心を優先し神対応をするアイドルであった。
戦時中、陸軍や海軍は兵士の士気を高めるために慰問雑誌を発行していた。
誌面には、当時の人気女優やアイドルのグラビアが掲載され、兵士への「励ましの言葉」も添えられていた。
待子もその顔ぶれの一人として登場し、彼女に向けられた多くのファンレターが編集部に届いたという。
さらに待子は、ムーラン・ルージュの座員たちと共に満洲(現・中国東北部)への慰問団にも参加している。
待子は、自分の姿を待つ兵士たちのために、ただひたむきに舞台に立ち続けた。
最後まで輝き続けたアイドルのその後
昭和20年(1945)3月、B29による空襲で浅草一帯は焼け野原となった。
そんな中でも、ムーラン・ルージュ新宿座には防空頭巾や鉄かぶと姿の観客が足を運んでいた。
空襲警報が鳴ると一斉に避難し、解除されると再び劇場に戻るという緊張感のなか、舞台は日々続けられていた。
その年の5月、ついに劇場も空襲で全焼する。だが座員たちはすぐに別の会場を借り、公演を再開した。
待子も再び舞台に立ち、戦後も地方巡業を続けたという。

画像 : ムーラン・ルージュ新宿座跡地に立地していた新宿国際会館ビル(2009年の写真)wiki c Kamemaru2000
昭和24年(1949)、待子は長年のファンだった男性と結婚。
29歳で芸能活動から退き、北海道へ移住する。
しばらくは夫の興行事業を手伝い、やがて自らの原点である日本舞踊の道へと戻っていった。
五條流の家元として名を継ぎ、「五條珠淑(ごじょう・たまとし)」を名乗った待子は、舞踊家として後進の指導にあたるなど、第二の人生を歩み続けた。
そして令和元年(2019)7月、99歳で静かにその生涯を閉じる。
暗い戦争の時代、明日待子は人々の心を支えたアイドルであった。
時代を映す鏡のように、アイドルは常に人々の願いを受けとめる存在であることを、彼女はその生き方で示してみせたのだ。
参考 :
押田信子「兵士のアイドル」旬報社
笹山敬輔「幻の近代アイドル史」彩流社
文 / 草の実堂編集部
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