大正&昭和

『忘れられた戦前の姐御女優』伏見直江、文盲だった少女が時代劇スターへ

戦前、時代劇の大スター・大河内伝次郎と名コンビを組み、鉄火な姐御役を演じて一時代を築いた女優がいた。

彼女の名は、伏見直江(ふしみ なおえ)。

大河内とは結婚がうわさされたが、その後、2人は破局しコンビは解消された。

その後も彼女は舞台や映画で活動を続け、戦後には一座を率いて海外公演にも乗り出した。
しかし、巡演先のブラジルで思わぬ出来事に見舞われ、帰国に苦労することになる。

今回は、そんな美貌の姐御女優・伏見直江の波瀾に満ちた生涯をたどっていく。

子役の舞台ではいつも男の子役を務める

画像 : 伏見直江(1928年) Public domain

明治41年(1908)11月、伏見直江(本名・伏見直枝)は、東京・深川の門前仲町に生まれた。

芝居好きの父は一座を構えており、直江は3歳頃からその舞台に立つようになる。

大正2年(1913)、父が旅芝居に見切りをつけて深川座に入ると、直江もまた子役として出演を重ねた。

兄や姉を相次いで病で失ったことから、父は直江を15歳頃まで男の子として育てたという。
筒袖を着せられ、頭は五分刈り。舞台ではもっぱら男の子役を務めていた。
舞台が忙しくて小学校へ行く機会がなく、直江はほんの少しの片仮名と数字しか読み書きが出来なかった。

大正9年(1920)、父とともに大阪の帝国キネマ演芸に入り、「伏見直江」の名で舞台や映画に出演するようになる。

大正12年(1923)の帝キネ映画『紺屋の処女』では、初めて娘役を演じ、長く続いた少年役の時代に区切りをつけた。
男役で舞台に立っていた頃には、町に出ると芸妓に見染められたり、思いもよらぬ目に遭うこともあったという。

大正13年(1924)春、父が急逝すると、母娘の暮らしは一転して苦しいものとなった。

画像 : 小山内薫(1881〜1928)public domain

父の知人で新派関係者の河合という人物を頼り、東京へ戻った直江は、その紹介で築地小劇場を訪ね、劇作家の小山内薫に面会する。

そこで研究生として迎えられ、新劇の世界に足を踏み入れることになった。

台本が読めなかった直江のために、小山内は小学読本を与え、稽古前の時間を使って読み方を教えたという。

直江は誰よりも早く劇場に入り、熱心に学んだ。

その明るい人柄もあって、劇団員たちは手の空いた時間を見つけては代わる代わる勉強を手伝い、直江は少しずつ文字を身につけていった。

時代劇スター・大河内伝次郎とのコンビが大ヒット

大正15年(1926)、直江は若手の新劇女優として次第に注目を集める存在になっていた。

そんな折、時代劇女優を求めていた帝国キネマから高給を条件に声がかかり、直江は再び映画の世界へと踏み出すことになる。

映画界入りの理由は、生活のためだけではなく、十分な教育を受けられないまま新劇の世界で生きていくことへの限界を感じていたからでもあった。

このとき会社の意向で芸名を「霧島直子」と改め、帝キネ時代劇の看板スター・市川百々之助と立て続けに共演し、女優としての存在感を強めていく。

しかし、市川から立廻りを求められた際「築地小劇場出身の女優が立ち回りなんかやるかい」と啖呵を切って断り、在籍はわずか1年で終わった。

ちょうどその頃、直江は阪妻プロから誘いを受け、実妹の信子とともに移籍する。

芸名を伏見直江に戻し、『血染めの十字架』などに出演したが、ここでも立廻りをめぐる方針の違いから退社を選ぶことになった。

画像 : 伊藤大輔 時代劇映画の基礎を作った名監督 public domain

こうした事情を知った築地小劇場の小山内薫は、日活・大将軍撮影所時代劇部の監督であった伊藤大輔に連絡を取り、直江のことを託す。

昭和2年(1927)、直江は妹・信子とともに日活・大将軍撮影所へ入社した。

ほどなく時代劇部は新設された太秦撮影所へ移転し、伊藤は時代劇スター・大河内傳次郎を主役に『忠次旅日記』三部作を制作する。

作品は大きな成功を収め、直江は最終編『忠次旅日記・御用編』で忠次の愛妾・お品という重要な役を任された。

当時19歳だった直江は、大河内を相手に堂々とした大姐御ぶりを見せ、それまで敬遠してきた立廻りでも存在感を発揮する。

画像 : 『新版大岡政談』左から伏見直江、大河内、高木永二。(1928年)日活太秦撮影所 Public domain

この一作を機に直江の名声は一気に高まり、続く伊藤大輔監督の『新版大岡政談』三部作にも起用された。

いずれの作品も好評を博し、伏見直江は名実ともに“姐御女優”の第一人者としての評価を確立していったのである。

大河内との恋愛と破局

昭和3年(1928)頃になると、直江と大河内傳次郎の結婚説がマスコミで取り沙汰されるようになった。

一方で、伊藤大輔が独立プロダクションを設立し、中里介山原作『大菩薩峠』の映画化を構想していたことが問題となり、伊藤は日活を解雇される。

同年末には大河内も日活を離れ、伊藤・大河内・直江という名トリオによる切れ味鋭い時代劇は、ひとまず姿を消すことになった。

しかし、翌昭和4年(1929)春、大河内が日活に復帰し、直江とのコンビも再びスクリーンに戻る。
さらに昭和5年(1930)春には伊藤も復社し、三人が揃った『続大岡政談』は大ヒットを記録した。

私生活では、この頃、直江と大河内は同棲生活を始めていたという。

画像 : 伏見直江(右)大河内傳次郎(左)「御誂次郎吉格子」public domain

しかし、直江との結婚に母親が強く反対していた大河内は、母の勧める女学校教員と密かに婚約しており、その事実は昭和7年(1932)1月、新聞のスクープ記事として報じられた。

同年5月、大河内はその女性と結婚する。

その後も直江は伊藤大輔監督の『薩摩飛脚』で大河内と共演したが、この作品の撮影中に2人の関係は清算された。

人を介して手切れ金1万円が渡されたものの、勝ち気な直江はこれを受け取らなかったという。

映画の上では大河内との共演がしばらく続いたものの、同年12月の撮影を終えると、直江は妹の信子を伴い、日活を退社することになった。

画像 : 妹の伏見信子 public domain

戦後、一座を結成し海外公演を行うも帰国に苦労する

その後も直江は舞台出演の誘いを受けながら、映画各社や独立プロの作品に出演を続けた。

昭和12年(1937)には妹の信子とともに松竹・下加茂撮影所へ入社し、再び時代劇を中心に活躍するが、昭和15年(1940)に姉妹そろって退社している。

戦後になると、直江は自ら一座を結成して渡米し、ハワイ、ロサンゼルス、ニューヨークを巡演した。

公演はいずれも成功を収め、勢いに乗って信子を誘い、南米巡演を計画する。

ブラジルではサンパウロやリオデジャネイロなどを回り、客の入りも悪くはなかったという。

画像 : 伏見直江 public domain

ところが、興業主の急逝や興行収入の持ち逃げといった不測の事態が重なり、直江は帰国の旅費を工面できなくなってしまう。

やむなくブラジルに半定住することを決め、生活費を稼ぐためにアパートを借り、学生を下宿させて生計を立てたという。

最終的に、日本へ戻ることができたのは、すでに帰国していた信子から資金が送られてから約8年後のことだった。

数々の苦労を経て帰国した直江は、かつて自分を慕っていた後輩から「時代はもう変わっているのだから、二度と舞台に出ようなどと思ってはいけない」と告げられる。

その言葉は、直江の胸に深く残ったという。

昭和47年(1972)、勝新太郎監督の『新座頭市物語 折れた杖』に出演したのを最後に、直江は表舞台から完全に身を引いた。

その後は大阪で店を構え、信子とともに切り盛りしながら静かな日々を送る。
その店には、往年のファンが足繁く通ったと伝えられている。

昭和57年(1982)5月、伏見直江は腎不全のため死去した。享年73。
波瀾に満ちたその生涯は、今も時代劇映画の記憶のなかに息づいている。

参考文献 :
大島幸助「銀座フルーツパーラーのお客さん」文園社 2002
千谷道雄「伏見直江むかし語り」『歴史と人物』1971年12月号
文 / 草の実堂編集部

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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