60年を超える女優生活の中で、300本以上の映画に出演した演技派女優・浦辺粂子(うらべ くめこ)。
10代で女優に憧れて家を出た彼女は、コーラスガールや旅回りの舞台を経て映画界に足を踏み入れ、日活時代にその演技力で高い評価を得た。
20代後半で一度は結婚を機に映画界を離れるものの、ほどなく離婚し復帰。その後は年齢や容姿に縛られない役柄を引き受け「老け役女優」として独自の境地を築いていった。
今回は、そんな永遠の老女優である彼女が、不慮の事故で生涯を閉じるまでの歩みをたどる。
母親の影響で芝居が好きになり、女優に憧れて10代で家を出る

画像 : 浦辺粂子(うらべ くめこ)public domain
明治35年(1902)10月、浦辺粂子(うらべ くめこ 本名・木村くめ)は静岡県下田に生まれた。
父親は長松山泰平寺の住職で、母親は士族の娘であり粂子の父とは再婚だった。
母が大の芝居好きであるうえに、母の姉が東京の明治座に売店を出していたため、粂子はそこから送られてくる演芸雑誌などを読んでいるうちに芝居が好きになった。
10歳頃には、当時流行っていた連鎖劇(無声映画と生の芝居を組み合わせたもの)のまねをして、近所の子達を集めて河原で芝居ごっこをした。
その後、沼津へ引っ越すと、週末には母親に連れられて芝居見物のために上京するようになる。
小学校を卒業すると女学校へ入学したが、もともと勉強が好きではない彼女は1年と持たなかった。
裁縫やお茶、お花などにも興味がなく、やりたいことは女優だけだったのだ。
17歳の時、粂子は女優を志す決意を母に打ち明ける。母はこれを咎めることなく背中を押し、粂子は父に知らせぬまま家を出た。
そして女優への足がかりとして、ちょうど沼津に来ていた奇術の松旭斎天外一座へ入り、全国巡業についてまわった。
しかし、やることは雑用ばかりで給金をほとんどもらえない状態が続いたため、甲府あたりを巡業していた時に一座を抜けて上京した。
憧れの女優になるためコーラスガールなどをして、日々奮闘する
上京した粂子は、まず日活向島撮影所を訪ねて女優志願を申し出るが、紹介状もなく門前払いに遭う。
次にオペラが盛んだった浅草へ行くと、オペラ常打ちの金龍館に女優募集の貼り紙を見つけた。

画像 : 浅草 金龍館 public domain
テストを受けると見事合格し、コーラスガールとして舞台に立つことになった。
その後、粂子は『静浦ちどり』という芸名で脇役を務めるようになったが、当時の浅草オペラのスター・田谷力三から「君は歌も下手だし、器量もよくない。オペラで芽が出るとは思えない」と言われたという。
これを受けて粂子は金龍館を辞めたが、いつか必ず映画女優になると発奮した。
しばらくはカフェの女給などで生計を立てたのち、金龍館時代に知己を得た音楽部員の外山千里を訪ね、「女優の仕事を世話してほしい」と頼み込む。
外山の口利きによって、粂子は大阪の浪華少女歌劇団に入り「遠山ちどり」の芸名で舞台に立つことになった。
しかし劇団は経営不振で、短期間のうちに解散してしまう。
大正11年(1922)、再び上京した粂子は、上野で開催された平和記念東京博覧会の余興として歌劇団に参加し、コーラスガールとして舞台に立った。
博覧会終了後は、金龍館で一緒だったオペラ歌手・杉寛(すぎ かん)に誘われ、新派一座との合同公演による旅回りのオペラに加わる。
そんなある日、新派の女優から「活動写真(映画)に出てみない?」と誘われ、高田馬場の小松商会という建築現場のような撮影所を持った映画製作会社へ入り、脇役ながらも撮影に参加した。
まもなく小松商会は解散することになったが、粂子は小松商会の監督・波多野安正から「君はうまい女優とはいえないが、熱心だし、他の人にはない何かがあるから、それを大切にして」と励まされたという。
大正12年(1923)春、粂子は占いをしていた不思議な老女から「このまま東京にいると、この秋に死ぬか大怪我をする。関西にお行き」と言われ大阪へ向かった。(同年9月関東大震災が起きた)
それから京都で旗揚げしたばかりの沢モリノ一座へ入り、浅草の時の『静浦ちどり』の名でコーラスガールとなったが、一座のオペラは不入り続きで解散しそうになった。
しかし別の興業主が現れ、新派の筒井徳二郎一座との合同公演が決まった。

画像 : 筒井徳二郎 public domain
その公演中、娘役の女優が急病で倒れたため、粂子が代役を務めることになる。
この代演が好評を博し、粂子は筒井一座に迎えられ、次第に名を知られる存在となる。
やがて新聞の演芸欄にも名前が載るようになり、映画界へとつながる足場が固まりつつあった。
「日活」へ入り女優デビュー
新聞の演芸欄で、粂子の名を見つけた元小松商会監督・波多野は、彼女を訪ねて彼女に日活京都の女優採用試験を受けるようにすすめた。
そして大正12年(1923)夏、粂子は日活京都へ入り、『浦辺粂子』の芸名で尾上松之助主演の『馬子唄』でデビューした。
当初は腰元役などの脇役ばかりだったが、決して手を抜かずなるべく前へ出て目立つようにしたという。

画像 : 「金色夜叉」鈴木伝明と浦辺粂子(うらべ くめこ 右)1924年
関東大震災後、日活向島の現代劇部が京都へ移ってくると、粂子も旧劇部(時代劇)から現代劇部へ移った。
そして翌大正13年(1924)、粂子は村田実監督の『清作の妻』のヒロイン・おかね役に大抜擢された。
村の模範青年・清作の妻となった妾上がりのおかねは、夫を戦争で失いたくないという思いから、夫の目をかんざしで刺して失明させ最後に心中するという物語で、粂子は監督に厳しく指導されながらこの難役を死ぬ気で演じた。
映画が公開されると、粂子は「大胆な演技の新しいタイプの女優」として各紙や映画関係者から高い評価を受けた。
続いて溝口健二監督の『塵境』では、鈴木傳明の相手役として旅芸人のお松を務める。
当時、映画雑誌『キネマ旬報』の編集同人だった古川緑波は「誇張ではない。僕はこの映画での彼女の演技を見た時、日本にもこれだけ演れる女優がいてくれたかと、涙ぐましい程嬉しかった」と粂子を絶賛し、彼女は本格的な演技派女優としての地位を確立していった。
昭和3年(1928)10月23日、粂子は京都の資産家の息子・上野興一と結婚し、これを機に日活を退社する。
しかし結婚生活は長く続かず、約1年後に離婚。粂子は再び日活へ復帰し、入江たか子主演の『未果てぬ夢』で映画界に戻った。
その後も溝口監督の『唐人お吉』、さらに『しかも我等は行く』では若年ながら母親役を演じるなど、年齢を超えた役柄に挑み、演技の幅を広げていく。
こうした経験を重ねる中で、粂子は次第に老け役を含む性格的な役どころを引き受けるようになり、女優として生き続ける道を選び取っていった。
昭和7年(1932)、日活大争議によって村田実監督らが退社すると、粂子もこれに同調し、日活を離れることになる。
老け役女優として活躍し戦後の映画復興に貢献する。そしてその後、、、

画像 : 入江たか子 public domain
日活退社後、粂子は入江たか子が主宰する入江プロダクションに参加し、溝口健二監督の『瀧の白糸』で、女水芸師一座の下座として生きる三味線弾き・お銀を演じた。
この役では、後に評価されることになる粂子独自の陰影ある演技が早くも発揮されている。
昭和8年(1933)には新興キネマ太秦撮影所へ移籍し、助演女優として数多くの作品に出演、のちには東京撮影所の作品にも起用されるようになった。
昭和17年(1942)、戦時下の企業統合によって新興キネマは大映となり、粂子も引き続き大映所属となる。
戦争映画が主流となる中で、粂子は庶民的で説得力のある母親像を体現できる女優として重用され、戦中・戦後を通じて安定した存在感を示した。
戦後の映画復興期には「老け役女優」として本領を発揮し、成瀬巳喜男監督の『稲妻』(1952)では、父親の異なる4人の子どもを育てる母親役を熱演し、大映賞を受賞する。
同じく豊田四郎監督の『雁』(1953)では、妾を囲う高利貸しの妻という複雑な女性像を抑制の効いた演技で描き、評価を高めた。

画像 : 浦辺 粂子(うらべ くめこ)映画「雁」 (1953年) public domain
その後も市川崑監督の『私は二歳』(1962)で祖母役を務めるなど、家庭の中に生きる老女像を確かな演技で支え、黒澤明、小津安二郎、溝口健二ら映画界を代表する監督作品に脇役として名を連ねる。
粂子は、戦後日本映画の黄金期を陰で支えた存在の一人であった。
昭和46年(1971)、大映の倒産を機にフリーとなると、活動の場はテレビへと広がり、バラエティ番組にもたびたび出演するようになる。
昭和59年(1984)には「わたし歌手になりましたよ」で82歳にして歌手デビューを果たし、これは当時の最高齢レコードデビューを記録した。
80歳を過ぎても女優として現役を貫き、都内で一人暮らしを続けながら仕事を続けていた。
しかし平成元年(1989)10月、自宅で湯を沸かそうとコンロを使用した際、コンロの火が服に引火し、粂子は火だるまとなり全身に大やけどを負った。
病院へ緊急搬送され治療を受けたが、翌10月26日、87年の生涯を閉じた。
不慮の事故による最期は多くの人に衝撃を与えたが、庶民の喜怒哀楽を体現し続けた浦辺粂子の演技は、今なお人々の記憶に深く残っている。
参考文献 :
浦辺粂子「映画道中無我夢中」河出書房新社 1985
脇田直枝「あたしゃ明治ギャル」誠文堂新光社 1986
文藝春秋「キネマの美女」1999
文 / 草の実堂編集部
























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