昭和45年(1970)3月、埼玉県内のアパートの一室で70代女性の遺体が発見された。
心不全を起こし、死後数日経っていたその女性は、黄色に変色した1枚の大正13年発行の新聞を持っていた。
それには当時の映画女優人気投票入選者が掲載され、第1位の川田芳子が最も目立つものとなっていた。
実はアパートで絶命していたその女性は、かつての大スター女優・川田芳子(かわだよしこ)本人であった。
時代を一世風靡したスター女優がなぜ1人さびしくこの世を去ることになったのか、その生涯をみていく。
新潟の花柳街で育ち、上京後、川上貞奴の養女となる

画像 : 川田芳子(かわだ よしこ)public domain
明治28年(1895)10月、川田芳子は新潟県新潟市の花柳街で生まれ育った。
芳子の祖母・トシは、市山七十世と名乗る日本舞踊市山流の家元であり、新潟だけでなく東京の歌舞伎界や花柳界でも知られた人物だった。
トシは芳子の踊りの素質を見込んで彼女の将来をたのしみにしていたが、明治40年(1907)春、芳子の母・イネは、小学校を卒業した芳子を連れて上京してしまった。
偉大すぎる母・トシを持つイネにとって、新潟の生活は息苦しかったのである。
明治42年(1909)、14歳になった芳子はその美貌を認められ、新橋芸者となった。
そして興行師であり新派劇の創始者・川上音二郎(おとじろう)の座敷に頻繁に呼ばれるようになる。

画像 : 川上音二郎(右)と、妻で女優の貞奴(さだやっこ)と public domain
川上は、女優の妻・貞奴(さだやっこ)とともに、日本の近代演劇を切り開いた人物だった。
そして川上夫妻は、芳子の美貌や踊りなどを見込み、彼女を女優にするために自分たちの養女として扱った。
芳子の母・イネは、このことに最初は反対だったが、夫妻の豪邸に招待されると「あんた、ここのお嬢さんになるんだよ。玉の輿というものですよ」と芳子に興奮気味に話し、喜んだという。
ところが、その後まもなく川上が病気でこの世を去り、芳子の女優デビューは保留になった。
芳子が初めて舞台に立ったのは、それから3年後の大正3年(1914)12月の帝国劇場公演である。
芳子は貞奴と一緒に舞台に立って美しい踊りを見せ、その後も貞奴一座の女優として活躍した。
一方で、女優としてのピークを過ぎた貞奴に対する世間からの悪評が目立つようになり、貞奴は若く美しい芳子に嫉妬し、次第に辛く当たるようになった。
結局、芳子は2年程で貞奴一座を辞めることになった。
松竹映画に初めて出演し、蒲田撮影所の看板スター女優となる
大正7年(1918)、芳子は芸者時代に出会った松竹創業者・大谷竹次郎のすすめで松竹の新派へ入り舞台に立った。
その頃、急速に発展していた映画は人々の強い関心を集めており、大正9年(1920)には松竹蒲田撮影所が開所した。
そして芳子は、アメリカ仕込みの撮影と編集の技術を持つヘンリー小谷を招いて製作された『島の女』に出演し、松竹映画最初の女優となったのである。

画像 : ヘンリー・小谷監督『島の女』の一場面。右が川田芳子(1920年) Public domain
こうして映画出演を果たした芳子だったが、彼女は当初、出演を依頼された時に「おまかせします」と答えた後、しばらく思い悩んでおり、むしろ母・イネの方が喜び、芳子の映画出演に乗り気だったという。
その後、芳子は松竹蒲田の二枚目俳優・諸口十九(もろぐち つづや)とのコンビで、賀古残夢監督作品に多く出演した。

画像 : 諸口十九(もろぐち つづや)public domain
二人が主演の映画はヒットし、互いに人気は上がっていった。
諸口は「映画では男女の愛を描くものが多いから、それをリアルに演技するには、僕たちのリアルな体験が必要だ」と芳子に話し、事あるごとに彼女を誘った。
素直で大人しく流されやすい芳子は、強引な諸口に次第に惹かれていき、ついに関係を持った。
大正11年(1922)夏、芳子は野村芳亭監督の『清水次郎長』に出演。
撮影所所長と監督を兼務していた野村は当時、多くのヒット作を手がけており、翌大正12年(1923)にも、芳子は野村監督の『母』に出演した。
この作品は、ひとりの娘に対して生みの母、育ての母、義理の母の3人の母親が、それぞれの愛を注ぎ犠牲を払うというもので、蒲田撮影所の3大女優だった川田芳子、栗島すみ子、五月信子の持ち味をいかした見事な設定で大ヒットした。
特に芳子の「生みの母」役は真に迫り、母の偉大な愛を感じさせたという。
人気が衰退するも、映画『母』で熱演し万人の涙を誘う

画像 : 城戸四郎 public domain
大正13年(1924)、松竹の映画担当取締役だった城戸四郎が、蒲田撮影所の新所長となった。
城戸はそれまでの路線を見直し、生活感のある喜劇や社会風刺を取り入れた新しい蒲田映画を志して、撮影所の空気を大きく変えていった。
一方、芳子は相変わらず諸口との関係を続けていた。
だが諸口は芳子だけでなく、新人女優・筑波雪子とも関係を持つようになり、そのことはやがて城戸の耳にも入った。

画像 : 筑波雪子(つくばゆきこ)public domain
呼び出された諸口は謝罪し、今後は仕事に専念すると誓ったものの、雪子との関係はその後も続いたという。
大正15年(1926)頃の芳子は、時代劇などに出演してなお活躍していたが、蒲田撮影所の主流からは少しずつ遠ざかっていた。
看板女優であることに変わりはなかったものの、その立場はすでに全盛期のものではなくなりつつあった。
昭和2年(1927)、諸口はついに雪子とともに松竹を去り、芳子との関係も終わりを迎えた。
だが芳子はそこから仕事に打ち込み、かえって一段と深みのある美しさを見せるようになっていく。
そして昭和4年(1929)鶴見祐輔原作、野村監督の『母』に出演した。
これは大正12年の同名作品とは別作品で、芳子は子どもたちを育てるため懸命に生きる母親を熱演し、大ヒットとなった。
引退と孤独な最期
昭和10年(1935)、40歳になった芳子は、彼女の引退記念映画『母の愛』の撮影を終えて映画界を去った。
それからの芳子は日本舞踊市山流の名取を務めながら、時々は舞台に立っていたが、空襲で蒲田の家を失い新潟へ疎開した。
そして戦後、芳子は様々な経緯があって熱海の糸川べりで芸者となったが、売れることはなかった。
そのことを知った松竹社長の大谷の配慮で、芳子は映画『悲恋模様』に出演することになったが、大女優のプライドがある彼女の行動は、現場の若いスタッフには理解できないことが多く、彼らを困惑させたという。

画像 : 川田芳子と養女(1948年)public domain
その後、芳子は養女を迎え、晩年はその養女と行動をともにするようになる。
だが養女はしだいに化粧や服装がけばけばしくなり、反社会組織の知人もいるような女性になっていった。
さらに新潟の芳子の姉のもとへ行って金銭を無心することもあったため、芳子は実家と絶縁状態になった。
落ち着いて住める場所がない芳子は、彼女の踊りの弟子を頼ることにした。
そして弟子が見つけた埼玉県草加市の6畳1間のアパートで暮らし始めた。
時おり、旅回りで踊りをしていた養女が金銭を無心しに来たが、昭和44年(1969)夏、過度な飲酒を続け生活も乱れていた養女はこの世を去った。
それからの芳子は、草加のアパートでひっそりと暮らしていた。
だが、翌昭和45年(1970)3月、芳子の姿を見かけなくなったことを心配した大家が、芳子のアパートへ行ったところ、彼女は遺体で発見された。
心不全を起こし、すでに死後数日が経っていたという。
そばには、黄色に変色した1枚の古い新聞が残されていた。それは芳子が大正13年、映画女優人気投票で第1位となった時のものだったという。
その1枚の古新聞は、貧しい生活の中、たった1人で74年間の生涯に幕を下ろした芳子の誇りであり、女優として生きた証だったのかもしれない。
参考文献 :
升本喜年「かりそめの恋にさえ」文藝春秋 1985
文藝春秋「キネマの美女」1999
文 / 草の実堂編集部

























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