大正&昭和

満州事変と石原莞爾について調べてみた

石原莞爾の生い立ち

満州事変と石原莞爾について調べてみた

※石原莞爾大佐(1934年)

石原 莞爾(いしわら かんじ)は明治22年(1889年)生まれの日本陸軍の軍人です。

軍での最終の階級は陸軍中将ですが、一軍人としてだけではなく軍事思想家としても知られています。

石原の名が知られることになったのは、満州に駐留していた関東軍の作戦参謀時代、上官の板垣征四郎らと実行した満州事変においてでした。
これを機に、満州国として独立することになった国家樹立の元を起こした首謀者として、昭和の日本の在り方に多大な影響を及ぼしたと人物となりました。

軍人としては、後に首相ともなった東條英機と反目したことから予備役に退くことになり、太平洋戦争の開戦時には既に退役していました。
満州事変という謀略を成功させた人物にも関わらず、戦後GHQからの戦犯指定には、病気や東條と対立した立場故に免れたとも言われています。

満州事変

石原は、昭和3年(1928年)に関東軍(遼東半島先端の関東州の防衛に駐留していた日本軍)の作戦主任参謀(中佐)として満州に着任しました。

そして翌、昭和6年(1931年)9月18日、上官・板垣征四郎らと満州事変を決行します。

※事件直後の柳条湖の爆破現場

これは奉天郊外の柳条湖において、南満州鉄道を爆破する事件を起こし、これを中国国民軍である張学良軍の犯行に仕立てて、鉄道を防衛するという名目を掲げて、満州を制圧する軍事行動を起こしたものです。

結果として約23万の兵力を有していた張学良軍に対して、わずか1万数千の関東軍が日本本土の3倍もの広さを有する満州を見事占領することに成功しました。
板垣・石原ら現地の軍人たちが起こした独断専行の軍事行動でしたが、政府はその行為を追従することとなり、後の軍部の独走に拍車をかけるきっかけとなりました。

この行動が成功した背景には、関東軍に対する中国国民党の東北軍(張学良指揮)が、ほぼ無抵抗であったことが大きな要因とされており、これは蒋介石が日本軍との戦闘よりも、共産党との内戦に重点を置いていたためでした。

石原の世界最終戦論

石原は、先の昭和6年(1931年)9月からの満州事変に先駆けて、自らの「世界最終戦論」を構想していたと言われています。

世界最終戦論」は大まかには、この世界は最後には西洋文明の代表たるアメリカと、東洋文明の代表たる日本とが「決勝戦」となる戦いを行うと予測したものでした。その時期は、現在の大陸間弾道弾のような兵器が用いられる状況であろうことも、石原はある程度予想していたと考えられています。

期たるべき決戦に備え日本は戦略物資を確保すべきであり、その有力な候補の地が地下資源が豊富な「満州」であると考えていました。

以後の歴史の流れと異なり、石原の構想は、満州は日本が直接統治を行い、その対象となる地域は中国本土まで拡大してはならないと考えていました。

二・二六事件と下克上の風潮

※叛乱軍の栗原安秀陸軍歩兵中尉(中央マント姿)と下士官兵

石原は、満州事変の後、大佐に昇進し、本土の参謀本部作戦課長に昇進していました。

昭和11年(1936年)の二・二六事件にあたっては、東京警備司令部参謀を兼務しており、反乱軍の青年将校たちを鎮圧する先頭に立っています。

反乱を起こした年将校達の意識の中には、かつての満州事変の首謀者としての石原を慕い、目的のためなら独断専行止む無しとする思想がありました。しかし石原は、これを反乱として賛同することはありませんでした。

また同年、石原は関東軍が推進していた内蒙古の分離独立工作に対して、陸軍中央の決定・方針に従うよう説得した際に、現地の参謀を務める武藤章から「あなたが満州事変時にした行動を見習っている」旨の発言を受け、反論できなかったと言われています。

東条英機との対立と退役

※東条英機

昭和12年(1937年)9月、石原は関東軍参謀副長に任命され、再び満州の地に戻りました。

翌年から上官・参謀長の東條英機と満州国の構想を巡って激しく対立し、東條との不仲が始まります。
この頃の石原の構想は、満州国は現地人自らが運営することを目指し、アジアにおける日本の盟友として育成しようと考えていたようです。

こうした考えを理解しない東條は、ついに翌、昭和13年(1938年)に石原を参謀副長から罷免し、舞鶴要塞司令官、さらに同14年(1939年)に留守第16師団長にへと左遷させました。そして太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月には予備役へと編入され、軍人としての人生を終えました。

なお、石原は太平洋戦争に反対の立場を表明し、その旨を説いていましたが受け入れられることはありませんでした。

東京裁判での主張

石原は、東京裁判(極東国際軍事裁判)では、病気・重態故か、最終的に被告リストから外されたとも言われています。
しかし、被告としてではなく、証人として病を押して山形県酒田の出張法廷に出廷しました。

その席で、判事に対して歴史をどこまで遡及して戦争責任を問うかを問うたと伝わっています。
判事の回答は「およそ日清・日露戦争まで」であったため石原は、では日本を開国させたアメリカのペリー提督を裁くべきとの持論を開陳しましました。

これは当時の日本は鎖国をしており、朝鮮も満州も必要とはしていなかったにも関わらず、日本に帝国主義を押し付けて開国をさせたのはアメリカを始めとする国々だったと喝破したもので、石原の慧眼を現す逸話として伝えられています。

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