番町会という組織について聞いたことがあるという人はあまりいないだろう。
しかし、この会は戦前の日本で確かに存在し、帝人事件という戦前日本の一大疑獄事件でその存在を知られ、さらには疑惑を追及したものが殺害されるという謎の事件が起きたのだ。今回は、番町会に関して調べてみた。
番町会の設立
番町会を設立したのは実業家の郷誠之助(ごうせいのすけ)であった。
郷は東京帝国大学法科を卒業後、農商務省に勤務、のちに財界に転身し、日本工業倶楽部の専務理事を務めるなど大きな影響力を持つ人物であった。
メンバーは当時郷が改革に尽力していた東京株式取引所(現在の東京証券取引所)の常務理事の河合良成、渋沢栄一が番頭格を務め、帝人の経営にもかかわっていた永野護、元警視庁警務部長という要職に勤めながらも、虎の門事件で免職、その後読売新聞社社主になった正力松太郎などの大物が多数在籍していた。
メンバーの性質としては、いわゆる政商と呼ばれる人物が多く、郷、河合は農商務省、正力は内務省入省後、警察官僚としてキャリアを積むなど官僚経験者も目立つ。番町会の名前の由来は、当時会を主催していた郷の指定が東京の麹町番町にあったことから、この名前がついたとされている。
帝人事件と番町会
さて、そんな番町会であるが、帝人事件では批判の的となった。
帝人事件は昭和9年(1934年)に起きた疑獄事件である。帝人は元々鈴木商店の系列企業であった。
しかし、世界っ恐慌のあおりで鈴木商店は倒産し、帝人の株は担保として台湾銀行に押さえられた。
当時、帝人の経営状況はよく、株価も上がっていたため、鈴木商店の実質的な経営者であった金子直吉は、鳩山一郎や番町会に働きかけて、株の一部を買い戻した。
しかし、時事新報が帝人株に関して贈収賄疑惑を報じ、番町会を批判した。当時、斉藤誠内閣で文部大臣をしていた鳩山氏は辞任、検察は番町会の永野護、大蔵官僚らを起訴した。鳩山氏は辞任したものの、内閣への批判が止まることはなく、最後には辞職に追い込まれた。
なお、起訴された永野たちの裁判であるが、検察の強引な捜査も批判の的になり、証拠もないことから全員無罪となった。
事件はでっち上げとわかったのだ。
疑惑の射殺事件
この帝人事件に関して、時事新報は最初に疑惑を報道した。当時の時事新報社のトップは武藤山冶(むとうさんじ)であった。
武藤氏は慶応義塾を卒業したのち、三井財閥の改革の実行、鐘紡では職工の待遇改善などを訴え、後には専務になるなど、実業家としても華麗なる経歴を持つ人物であった。その後、政治家として、政治浄化による階級闘争防止と、経済的自由主義に基づく“安価な政府”の実現を訴え衆議院議員に当選、実業同志会という政党を設立し、会長に就任した。
彼の主張は未来を先取りしたような政策を提案していた。日本銀行の独立、鉄道・電話・タバコの民営化、総理大臣の公選などを主張していた。日本銀行の独立は戦後に実現された。鉄道・電話・タバコの民営化は、1980年代の中曽根内閣による改革によって実現されている。当時の武藤はこうした時代の先を行く提言を社会に行っていた革新的な政治家であり、実業家であるといえるだろう。
そんな武藤が帝人事件に関して疑惑を追及したきっかけは金子氏からの情報提供だった。番町会に帝人株の一件で出し抜かれた金子氏からこの顛末を聞き、彼は経営していた時事新報社で、疑惑の追及を始めたのだ。その後、武藤氏は時事新報にて「番町会を暴く」という連載を開始、番町会の面々を批判し、事件の闇を追及することを始めた。
しかし、武藤は鎌倉の別荘で射殺されてしまった。犯人は自殺し、動機は不明であるが、当時は番町会の手で殺されたとの疑惑も出ていた。なお、帝人事件では、事件を担当していた主任検事が公判中に殉職している。永野氏は無罪になり、帝人事件はでっち上げであったことはわかっているが、それでも番町会は疑惑をもたれたままとなってしまったのだ。
以上が番町会に関する事実である。帝人事件に関して、永野氏は無罪になり、冤罪事件に見えるものの、疑惑は残り続ける状況となったのだ。しかし、番町会のメンバーには戦後になって活躍した人物もいる。ひょっとしたら、我々が「怪しい組織」として見ている団体も、この番町会のように、でっち上げの被害者なのかもしれない。
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