ワンマン宰相
吉田茂(よしだしげる)は、戦前から外交官・外務大臣を務めた官界から政界りした政治家であり、戦後の保守本流の源としてGHQ占領下の日本をサンフランシスコ講和会議で再び独立に導いた人物です。
その癖のある独裁的な態度から「ワンマン宰相」の異名を取りましたが、現在の目線から見た保守本流という言葉とは少し異なる政治思想の持ち主であったように感じられます。
戦後の総理大臣としては現在の首相の安倍晋三と吉田のみが、一旦退任した後に再び首相の座に就いた稀有な存在とですが、戦後の混乱期に政権を担当した吉田について振り返ってみました。
実は遅かった官界入り
吉田は、1878年(明治11年)に高知の出身で板垣退助の腹心の部下であった竹内綱の五男として生まれています。しかし父は反政府活動を行ったとして獄にあり、父の友人であった実業家・吉田健三の養育を受け後に養子となりました。
吉田は自らが東京帝国大学に学んだことから、後年政治家となった際に自らと同じく官界から政治家を育成しようとしました。そうした中で教え子として池田勇人や佐藤栄作らを輩出たことで知られていますが、自らは1904年(明治37年)に学習院大学科からその閉鎖に伴って無試験で入学しています。
その後1906年(明治39年)に28歳にして東京帝国大学を卒業、外務省の外交官試験に合格して入省し比較的遅い役人人生をスタートさせました。
戦前・中の吉田
吉田は外務省で約20年近く中国大陸に赴任しています。後に親米英派と軍部に睨まれた吉田ですが、この中国時代には大陸における日本の進出を熱心に推進し、満州の分離・独立を唱えていました。
但し国際的には米英との協調を提唱し、第一次世界大戦の敗戦から立ち直って急激に軍事大国として復活してきたドイツとの関係には慎重な態度であった為、推進派からは敵対視されていました。
その後太平洋戦争に突き進む政局の中、吉田はドイツとの同盟締結に反対していたことから枢要な地位から外されます。太平洋戦争の開始前後には和平を模索する活動を行いましたが果たせず、1945年2月には憲兵隊の拘束を受けて投獄されていました。
偶然の首相就任
1945年8月に日本の敗戦で太平洋戦争が終了すると、吉田は戦後の内閣に外務大臣として入閣しました。そして偶然の事態が翌1946年5月に起こります。
当時、日本自由党総裁の座にあった鳩山一郎が首相になることが既定路線であったものの、直前になって鳩山がGHQの公職追放の処分を受け、吉田に代わりの総裁及び首相の座が回ってきたのです。
この時鳩山に請われて意図せず首相となった吉田ですが、これ以後複数の内閣を組閣することになって行きます。
そして1951年(昭和26年)9月にサンフランシスコ平和条約を結んで日本の独立を回復させた吉田は、このとき同時に日本とアメリカとの日米安保条約を締結し、今に至る日米の同盟関係の基礎を築きました。
日米安保と自衛隊
戦後の保守本流の政治家として日米安保条約(※旧)を締結した吉田ではありますが、朝鮮戦争の勃発から日本に再軍備を要求していたアメリカに対し、経済復興を推進するためにあくまで軽武装を貫こうとしました。
警察予備隊、保安隊、自衛隊と組織が拡大される中にあって、決して自衛隊を軍隊と認めなかった姿勢は、国内の政治的な配慮に加えて、ともすれば重武装によって国の経済に負担をかけかねない事態を防ごうとした政策でもありました。
しかし国防という命題をアメリカに金で依存するという、現在に繋がる課題を残すことにも繋がりました。
「バカヤロー解散」に象徴されたワンマン宰相吉田は、そのワンマン振りなどから高圧的な、主擦ればタカ派的な印象を持たれがちですが、国防という観点から見ると決して強硬な人物ではなく、むしろそれを金で済まそうとした政治家とも言えたのではないでしょうか。
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