「博覧会」というと、最先端の技術を用いた機器や外国のめずらしい製品の紹介などが思い浮かびますが、大正3年に行われた「東京大正博覧会」では、生身の人間の展示が行われていました。
50名ほどの美人が見世物となった「美人島旅行館」や、人食い人種が展示された「南洋館」とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。
「東京大正博覧会」とは
大正3年(1914)、大正天皇の即位記念と国家の殖産興業の発展という主旨のもと、東京府が主催となり開催されたのが「東京大正博覧会」です。
会期は3月20日から7月31日。福引付きの入場券は、平日15銭(子どもと軍人は5銭)、日曜祝日は平日の5銭増しで、福引の一等は100円の物品購買券でした。
入場者数750万人という数字は、当時の日本の人口約5000万人から考えると大成功といえるでしょう。
会場は上野公園の第一会場と不忍池周辺の第二会場があり、公園内の既存の美術館や博物館だけでなく、たくさんの新しいパビリオンが建設されました。
第一会場と第二会場を結んだ国内初のエスカレーターは、博覧会の呼び物の一つで、事故が起きるほどの盛況ぶりでした。
ほかにも、飛行機やガスレンジ、水上スキーなど最先端の技術を用いた品々が展示され、中でも日本の純国産自動車の1号車である「脱兎号(DAT CAR)」や現代のプリクラ、証明写真機に相当する「自動一分写真機」が話題になりました。
その他ロープウェイやサークリング・ウェーブといった乗り物、軍艦や鉱山の模型、演芸館など大人も子どもも楽しめる娯楽施設も多く、すべて見るのに5~6日はかかるといわれる程の規模でした。
美人の買出しに奔走する博覧会
東京大正博覧会の特徴の一つは、とにかく「美人」が必要とされたことです。
当時のガイドブック『東京大正博覧会案内』には、各パビリオンや売店が「女集め」に奔走する様子が書かれています。
“女苦学生や真面目な生活に飽きた淪落(りんらく)の女が自ら進んで申し込むのを待っては居られず、遠く東北の凶作地、北海道さては名古屋地方までも、美人の買出しに出かけたという有様ですから、上野の山は真に女護(にょご)の島といっても過言ではありますまい”
女護の島とは、女性だけが住むという空想上の島のことです。
そうして集められた美人のほかに、園遊会や模擬店、演芸館では芸者800名が給仕にあたったり、唄や踊りを披露したりしており、まさに美人だらけの博覧会でした。
50名の美女が来館者を悩殺する「美人島旅行館」
博覧会で前評判が高く、“一番見落とすべからざる興行物”といわれたのが「美人島旅行館」です。
「美人島旅行館」は、奇々怪々な扮装をした美人のいる部屋を順々に巡っていくという趣向でした。
彼女たちは「美人百名募集」で集められた選りすぐりの美人です。
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当時のプログラムによると、猛火の中にたたずむ火中美人や水中で魚と戯れる水中美人などがいました。
幽霊美人は、やつれ果てた白装束の美人がニヤニヤと笑い、煙のごとく消えるといった内容で、他にも蛇体美人、無体美人、三面一体美人、馬頭美人、井戸中の美人などの部屋がありました。
これらの見世物は幻燈や鏡を利用して作られており、たとえば火中美人は、無数の穴のあいたトタン製の円筒に赤電球を入れてぐるぐる回し、人と背景を照らすと、まるで火の中に美人がいるように見えるという仕掛けです。
そのほかにも「月の輪ダンス」などの余興があり、そのときだけ、観客は美人を目の前で見ることができました。
前評判の高かった「美人島旅行館」ですが、にわか作りの寄せ集めだったからでしょうか。実際に見た人からは、あまり良い評価は得られなかったということです。
国力誇示のための「南洋館」
東南アジアに住む人々を連れてきて見世物にしたのが「南洋館」です。
この種の展示は、日本が植民地を持った明治後半頃から、国力を誇示するために行われるようになりました。
具体的な陳列品は、生きた猿やワニ、大蛇、子象、しっぽのあるニューギニア人などグロテスクなもので、ガイドブック『東京大正博覧会実記』には、
“食人種(蘭領ボルネオ島ダイヤーク人種)の一隊この館に到着して、余興の手踊りその他珍妙な舞踏等を見せて居る。”
とあり、人食い人種に余興をさせていたようです。
仕事帰りに博覧会で豚肉を買うハイカラ紳士
東京大正博覧会の動物舎では、ニワトリやアヒルなどの家禽、犬、狆(ちん)、猫、ミツバチ、小鳥、牛、馬、豚などが陳列されていました。
種類だけみると現在の「ふれあい動物園」といったところですが、その数が半端ではありません。
馬96頭、牛120頭、豚20頭、家禽215羽、ミツバチ12箱。この数の多さには主催者のただならぬ意気込みを感じます。
『東京大正博覧会実記』も
“ともかく愛畜家、愛禽家の連中はぜひ行ってみるべしである。”
と強く来館を勧めていました。
博覧会には20万点もの出品がありましたが、非売品でなければ購入できました。
園芸館では鉢植えなどに加えて野菜の即売が、動物舎では展示品でしょうか、豚肉の切り売りが行われており盛況でした。
その様子を『東京大正博覧会実記』は、以下のように書いています。
“縮緬(ちりめん)の羽織を着流して、立派にお化粧をなされた令夫人が、大根や菜っ葉の包みを抱えたり、金縁メガネのハイカラ紳士が、会社の帰りに博覧会に立ち寄って、夕餉(ゆうげ)用の豚肉をここから買って、家内の喜び顔でも見んものをと家路を急ぎ正門を立ち出でらるる珍な姿を見受ける事がある。”
午後5時でパビリオンは閉館してしまいますが、夜は提灯や電飾などで建物にイルミネーションがほどこされ、幻想的でさながら不夜城のようであったといいます。
「エロ・グロ・ナンセンス」文化の先駆けともいわれる「東京大正博覧会」は、大正という新しい時代の幕開けを告げる展覧会だったのかもしれません。
参考文献:
・東京大正博覧会案内編輯局 編『東京大正博覧会観覧案内』,文洋社,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション
・笠原天山 編『東京大正博覧会実記』,共楽社,大正3. 国立国会図書館デジタルコレクション
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