鎌倉市の北、山間に包まれるように建つ龍寶寺(りゅうほうじ)。
戦国大名・後北条氏の菩提寺として信仰を集める名刹の境内に、一基の石碑がたたずんでいます。
いざゝらは(さらば) 吾可(わが)身散るとも 我か心
堅く護らん 皇孫(すめまご)の國 功雄【意訳】さぁ、お別れです。たとえ私が死んでも、私の心は日本を堅く守り続けることでしょう。
皇孫とは天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫であり、葦原中国(あしはらのなかつくに。日本)を統治すべく高天原(たかまがはら。天上世界)より降臨した邇邇芸命(ニニギノミコト)。現代の皇室につながる祖先神です。
また、日本人の大半は皇室の子孫(残り半分はほぼ藤原氏の子孫)と伝わっています。
そのため、皇孫の国とは邇邇芸命とその子孫が統治する皇室の子孫たちが暮らす国。つまり日本と解釈できるでしょう。
さて、この歌を詠んだ功雄(いさお)さんとは、一体どんな方なのでしょうか。
フィリピン島沖の航空戦で最期を遂げる
石碑の裏側をのぞいて見ると、こんな文章が刻まれていました。
神風院殿至誠明道大居士
神風特別攻撃隊至誠隊隊長
従七位功三級勲五等海軍少佐
團野功雄㕝 行年二十四歳
昭和十九年十月二十九日大東亜戦争比島沖航空戦ニ於テ
第二神風特別攻撃隊至誠隊隊長トシテ勇戦名誉ノ戦死ス【意訳】神風院殿至誠明道大居士(しんぷういんでん・しせいめいどうだいこじ)について。
神風特別攻撃隊のうち、至誠隊の隊長として出撃した。
従七位(じゅしちい)功3級勲5等、海軍少佐。
團野功雄(だんの いさお)こと。24歳の時。
昭和19年(1944年)10月29日、大東亜戦争のさなか、フィリピン島沖の航空戦で戦死。
第二次神風特別攻撃隊至誠隊隊長として、その名に恥じぬ最期を遂げた。
……という事です。戦死日時と享年から逆算して 、大正10年(1921年)生まれでしょうか。
これは数え年の場合で、満年齢とは誤差があるものの、20代前半の若者であったことに変わりはありません。
戦死当日、至誠隊として出撃したメンバーは6名。顔ぶれは以下の通りです。
【第二次神風特別攻撃隊・至誠隊】
1.隊長 団野功雄 海軍中尉
神奈川県出身/海軍兵学校71期/九九式艦上爆撃機2.松元巌 海軍上飛曹
愛知県出身/乙飛第12期/九九式艦上爆撃機3.佐々安則 海軍飛長
熊本県出身/丙飛第14期/九九式艦上爆撃機4.前田文夫 海軍飛長
熊本県出身/丙飛第16期/九九式艦上爆撃機5.鈴木正一 海軍上飛曹
東京都出身/甲飛第6期/零式艦上戦闘機(直掩)6.太田吉五郎 海軍飛長
岩手県出身/丙飛第13期/零式艦上戦闘機(直掩)
直掩(ちょくえん)とは護衛のこと。ここでは重い爆弾を抱えて動きの鈍い艦上爆撃機が無事に敵艦へ突撃できるよう、邪魔する敵機を撃退する任務でした。
敵艦へ突撃・炎上墜落していく仲間の最期を見届けて生還せねばならないのは、自分が死ぬ以上に辛かったことでしょう。
終わりに
かくして團野中尉は、戦死にともなう二階級特進で少佐となりました。
特攻という十死零生の戦術は、間違いなく愚策中の愚策に他なりません。
しかし、尊い自分の生命を投げ打って敵を少しでも食い止めたい。日本に残された家族や大切な人たちを守りたい。
何より敗戦は百も承知で、強大な力に奢る敵輩へ、一矢報いてやりたい。その想いは、深く共感するところです。
團野少佐の英霊は今も鎌倉の地に眠り、郷土の人々を見守り続けていることでしょう。
鎌倉市 龍寶寺データ
〒247-0073 神奈川県鎌倉市植木128
JR大船駅より徒歩15分創建 文亀3年(1503年)
開山 泰絮宗栄
開基 北条綱成
本尊 釈迦如来像
略史
文亀3年(1503年)創建、瑞光院と称す
天正3年(1575年)現在地へ移転、龍寶寺と改称
天正18年(1590年)龍寶寺住職の説得により、玉縄城が開城。後北条氏滅亡
江戸時代 新井白石が家禄200石を寄進
朝鮮通信使の宿舎として使われたことも
享保10年(1725年) 室鳩巣が新井白石を顕彰する石碑「朝散大夫新井源公碑」を建立
明治15年(1882年) 境内に玉縄学校(現:玉縄小学校)が開校する
昭和12年(1937年) 玉縄学校が現在地へ移転する
昭和23年(1948年) 境内に玉縄幼稚園が開園する
昭和26年(1951年) 火災により山門と鐘楼以外全焼する
昭和34年(1959年) 境内が再建される
昭和44年(1969年) 境内の石井家住宅(江戸元禄期の農家を移築)が国の重要文化財に指定される
平成23年(2011年) 境内「玉縄民俗資料館」を整備、「玉縄ふるさと館」に改称
令和2年(2020年) 境内「玉縄ふるさと館」が「玉縄歴史館」にリニューアルオープン
※参考文献:
- 安延多計夫『南溟の果てに』自由アジア社、1960年
- かまくら春秋社 編『鎌倉の寺 小辞典』かまくら春秋社、2002年6月
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