近年、「アンガーマネジメント」といった怒りのコントロール方法をよく耳にするようになりました。
しかし、ささいな事でカッとなりトラブルを起こすのは今に始まったことではないようで、戦前の少年犯罪においては、激昂した小学生による殺傷事件が数多く見られます。
今回は管賀江留郎氏の著者『戦前の少年犯罪』から、戦前の小学生による犯罪を取り上げてみたいと思います。
なお、昭和25年1月以前は、新聞の年齢表記はすべて数え年です。満年齢は、文中の年齢よりも1歳から2歳低くなります。
カッとなって殺人、キレやすい戦前の小学生
【昭和4年 9歳(満年齢7~8歳)がおやつを巡って6歳を射殺】
岡山県御津郡の自宅で、9歳が隣家の6歳を射殺した。母親が3時のおやつにモチを出してくれたが、「焼き方が悪い」とわがままを言って食べなかった。そこへ遊びに来た6歳が「おまえが食べねば、わしが食べてやろう」と食べ出したので怒って、「毒が入っているので死ぬぞ」「撃ち殺すぞ」などと脅したが、「撃ってもよい」と6歳が言い返したので、父親の猟銃で心臓を狙い撃ちしたもの。『戦前の少年犯罪』
戦前は猟銃が身近な存在で、管理も不十分だったため、子ども同士でふざけていて射殺してしまったり、銃が暴発したりといった事件も散見されます。
「そんなことで?」と思われるような理由で人を殺傷してしまった事件が多かったようです。
【昭和4年 小6(満年齢11~12歳)がケンカで殺害される】
千葉県千葉郡の路上で、小学6年生(13)が、隣り村の6年生(13)と村自慢のことでケンカとなり、ナイフで胸を刺して殺害した。『戦前の少年犯罪』
【昭和8年 小5(満年齢11~12歳)が殺人未遂】
「宮崎県児湯郡で、小学5年生(13)が同級生(13)の肺を出刃包丁で刺して重体とした。遊んでいるうちに、ミカンのことでケンカになったもの。『戦前の少年犯罪』
戦前の学生は、鉛筆を削るために日頃からナイフを持ち歩いていました。それが災いしたのでしょう。
小学生の殺傷事件のほとんどが、ナイフによるものでした。
当時は、青少年の刃物による犯罪は増加の一途をたどり、社会問題となっていました。
その後「鉛筆削り」が普及したのと、昭和35年に起きた少年による代議士殺傷事件「浅沼事件」をきっかけに「刃物を持たない運動」が全国に拡がり、刃物を使った少年犯罪は減少していきました。
女性27人を切りつけた、小6の連続通り魔
「通り魔」の多さも、戦前の少年犯罪の特徴の一つです。
【昭和9年 中1(満年齢12~13歳)が連続通り魔】
岐阜県岐阜市で夜10時前、中学1年生(14)が自転車に乗って、夜学から自転車で帰宅中の女工(17)に近づき「コンチクショウ!」と叫びながら押し倒して、ナイフで顔、首、胸などめった刺しにして重体として逃走した。
翌年2月10日の朝6時、民家に侵入して就寝中の女性(23)を、出刃包丁で15回めった刺しにして重傷を負わせて逃走したが、女性に指を噛みつかれてケガをしていたためその日に逮捕。1年前から路上で女性27人を切りつけて5人に重傷を負わせた連続通り魔事件の犯人であることを自供した。
小学校ではトップクラスの成績だったが、中学入試のため深夜まで猛勉強を続けて神経衰弱となり、探偵実話小説を読みふけった影響もあって、小6の2月に初めての犯行を犯し、女を襲わないと寝られない変質者となった。 『戦前の少年犯罪』
少年は裕福な家庭の次男で、両親はタンスの中に血まみれのガーゼなどを見つけていたのですが、犯行にはまったく気づかなかったようです。
この他にも、小学生の頃から女学生のスカートや着物を肥後守(ひごのかみ・折りたたみ式のナイフ)で切り裂き、泣き出すのを楽しみにしていた中学1年生や、10人以上の女性のお尻を自転車で通りがかりに針金(自転車のスポーク)で突き刺し逮捕された男子など、戦前は「通り魔事件」が毎日のように起きていました。
壮絶なイジメ
戦前の小学生のイジメは、枚挙にいとまがありません。
【昭和9年 小3が同級生を火あぶりにしようとして殺人未遂】
北海道網走郡で、小学3年生3人が、下校中に同級生を松林に連れ込んで裸にして木に縛りつけ、火あぶりにしようとしているところを教師に見つかった。授業中に筆を貸さなかったため殺そうと計画して友人2人に手伝わせたもの。『戦前の少年犯罪』
当時の小学3年生は、実年齢で7歳から8歳。火あぶりとは、なんとも険呑です。
次は戦後の集団リンチですが、こちらは当時のベストセラーの影響が大きいようです。
【昭和24年 小6女子(満年齢12~13歳)が集団リンチ】
福島県東白川郡で、小学6年生女子(14)が手下12人の女子を従えて、同級生女子2人を裏山に連れて行き歌や踊りをさせて、雨の中で全裸にして荒縄で手足を縛り、ホウキで殴ったり崖から突き落としたり、7人が小便をかけたりして暴行を加え仮死状態にした。
リーダーの名前をつけた「○○一家」と名乗り、同級生を脅したりビー玉の賭け事をさせて金を1万円も巻き上げ、マンガ本やお菓子を買っていた。逆らう女子には集団で殴る蹴るのリンチを繰り返しており、家の金を盗んで上納していた者もいた。『戦前の少年犯罪』
リーダー格の女子は、奈良県から疎開してきた中流家庭の子どもで、成績はクラスで一番、しかも美少女だったそうです。
彼女は少女小説や探偵小説、マンガなどを愛読しており、お産のマネなどをする子でした。
結局13人を暴行恐喝した容疑で家庭裁判所へ書類送致となりましたが、父親は「私の娘が同級の者といっしょにやったことは確かだが、親分気取りで命令していたことは絶対無いと思う」と語りました。
また、リーダーは、福島新聞のインタビューに対して「自分は仲間に命令したことはなく、みんなと一緒にいたけれど何もしていない。ただ、自分が頼めば皆、言うことを聞いてくれた」と語っています。
戦後、田村泰次郎の小説『肉体の門』がベストセラーとなり、映画や舞台にもなりました。
中でもひときわ人気を集めたのが「劇団空気座」による舞台で、主人公の娼婦ボルネオ・マヤが受けるリンチシーンが話題となり、一目見ようと連日大勢の観客が押し寄せたそうです。
こうした影響を受けて、子どもたちの間では「肉体の門ごっこ」が流行していました。両手を縛って吊された女の子に男の子がリンチを加え、女の子は真剣に痛がるまねをするという恐ろしい遊びでした。
おわりに
通り魔やイジメ以外にも、毒殺や級長選での買収工作のための窃盗など、戦前は大人顔負けの犯罪が小学生の間で行われていました。
子どもは「親の鏡」であると同時に「社会を映す鏡」といわれます。
現在に比べ、格段に小学生の犯罪が多かった戦前は、殺伐とした生きづらい時代だったのかもしれません。
参考文献:管賀江留郎『戦前の少年犯罪』築地書館
文 / 草の実堂編集部
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