菊地凛子さん演じる茨田りつ子のモデル・淡谷のり子は、10年に一人のソプラノと絶賛された美声をもち、「ブルースの女王」といわれた昭和を代表する歌手です。
スズ子のモデル・笠置シヅ子が当局の指導に従ったのとは対照的に、淡谷のり子は終戦まで自分のスタイルを変えませんでした。
今回は史実を元に、軍部に屈することなく自分の意志を貫いた、戦時下での淡谷のり子の音楽活動について、ひも解いてみたいと思います。
ドレスは歌手の戦闘服
昭和12年に始まった日中戦争を契機に、日本国内では華美を慎む風潮が広がります。
戦況が悪化するにつれ生活は窮屈になっていき、昭和15年には「ぜいたくは敵だ」のスローガンのもと、女性の“おしゃれ”はことごとく規制されました。
まず輸入化粧品がぜいたく品として規制され、その後おしろいや頬紅、口紅などの使用が禁止に。さらに過度なおしゃれは贅沢だとされ、パーマも禁止され、衣服にはモンペが奨励されました。
こうした規制にすべての女性がおとなしく従ったわけではなく、特に戦前から人気だったパーマは多くの女性がかけ続けていたそうです。
しかし、パーマスタイルの女性は「非国民」と罵られ、唾を吐きかけられるような世の中でした。
そんな世の中でも、淡谷のり子はパーマも化粧もやめず、モンペ姿で歌えという軍部の命令にも従いませんでした。
歌手は夢を売る商売。暗い時代だからこそ、舞台では華やかなドレス姿を見せてあげたい。何よりも歌に命を懸けていたのり子は「歌手の戦闘服はドレスであり、軍人が軍服を着るのと同じ」だと考えていました。
マニキュアが赤すぎる、ハイヒールは非国民だと化粧や衣装に干渉してくる当局の言葉に一切耳を貸さず、始末書だけが増えていったといいます。
戦地への慰問の日々
昭和16年、太平洋戦争が勃発すると、「進め一億火の玉だ」のスローガンのもと、芸能人も「進め、慰問」と銘打って戦地に駆り出されるようになります。
昭和18年には、内務省と情報局から「米英音楽の追放」の通達が出され、これによってジャズやハワイアンなどの米英音楽は「敵性音楽」として演奏や発売を禁止されました。
「別れのブルース」と「雨のブルース」も、戦意を喪失させるとして発禁処分を受けています。
戦時中、淡谷のり子は何度も戦地へ慰問に訪れています。
芸能人はたいてい恤兵部(じゅつへいぶ)に所属し、軍からお金をもらって慰問に行きましたが、「軍歌など歌いたくない」と思っていたのり子はそれを拒否。無料奉仕に徹し、罰を覚悟で自分の好きな歌を歌いました。
戦地で兵隊たちは、勇ましい戦意高揚をうたった軍歌よりも哀調を帯びた心に残る歌を望み、米英音楽として禁じられた「別れのブルース」や「雨のブルース」へのリクエストが多かったといいます。
命がけで戦っている兵隊さんたちが望む歌をうたって何が悪い。慰問先の上海で、のり子は罰せられるのを覚悟し、ブルースやシャンソン、タンゴなど50曲を披露しました。
「淡谷のり子とその楽団」が演奏する最高の伴奏で、のり子は兵隊たちのために心を込めて歌いました。
監視の将校たちは歌が始まると居眠りをしているふりをしたり、会場から出て行ったりして見て見ぬふりをし、のり子に何も言わなかったそうです。
特攻隊員の前で涙した淡谷のり子
プロの歌手になった時から「ステージで涙を見せるのは恥」と信念をもっていたのり子が一度だけ涙を流したのは、九州の特攻基地を慰問に訪れたときでした。
沖縄決戦が叫ばれていた戦争も末期に差しかかった頃、特攻隊員たちのために歌を歌って欲しいという軍部の要請による公演です。
のり子が立ったステージの前には、キリっと白い鉢巻きをした、まだあどけなさの残る少年たちが座っていました。
「淡谷さん、彼らは特攻隊員です。命令が出たらすぐに出撃しなければなりません。歌の途中で失礼するかもしれません」
という将校の言葉に、のり子は「出撃命令など出ませんように」と祈るような気持ちで歌っていました。
しかし、歌の途中で一人またひとりと少年たちは立ち上がり、凛々しい敬礼をのり子に向けて静かに去って行きます。
敬礼されるたびに、のり子はそれに応じていました。でも、下を向いてしまったらもうダメでした。こみあげてくる涙を止めることができません。
精一杯の声で「すみません」と言って兵隊に背を向け、のり子は泣き続けました。
淡谷のり子が軍の指導を拒絶した理由
「淡谷のり子とその楽団」は、軍部から名前がアメリカ式だとして「大山秀雄楽団」に改名され、メンバーは次々に召集されていきました。
敗色が濃厚となる中、細々と地方巡業を続けるのり子が終戦を迎えたのは、山形県の月山の麓でした。
敗戦の1か月後、滞在先の宿に山形県庁の役人が訪れ、進駐軍向けのショーへの出演を依頼します。
わずか1か月で日本軍の慰問から、敵国米軍の慰問へ。のり子は進駐軍のキャンプで、戦争中に歌えなかった曲を夢中で歌いました。
歌手は夢を売る商売。歌を聞いてくれる人がいれば、どこにでも行く。自分に正直に生きていたのり子は、戦争中も戦争後も変わりませんでした。
淡谷のり子が軍の指示に従わず、厚さが何センチにもなる始末書を書いて意地を貫いたのは、戦争に反対していたわけではなく、何よりも歌を大切にしていたからです。
後年、彼女は自伝『いのちのはてに』で当時を次のように振り返っています。
“憲兵隊本部が何を言おうと、それが歌のために良くないと思ったから意地を貫き通しただけ。反戦を唱えたわけではないんです”
“いい歌が歌いたいばっかりに、全て歌のためのわがままですね”
のり子のふるさと津軽では、「強情っぱり」のことを「じょっぱり」と言い、「じょっぱり」よりもさらに強情でわがままな人や損得を考えず妥協しないことを「からきじ」と言います。
淡谷のり子は、どこまでも「からきじ」を貫いた人だったのかもしれません。
参考文献:淡谷のり子『最後の自伝 いのちのはてに』.学習研究社
ブギウギの背景を分かりやすく教えていただきありがとうございます。涙が溢れてきました。これからも楽しみに読ませていただきます。
涙が止まりせん。