梅丸から独立し「福来スズ子とその楽団」を結成したスズ子。
スズ子の実在モデル・笠置シヅ子も自身の楽団を結成し、公演を行なっていました。
結成当初は順調だった楽団ですが、戦局の悪化により様々な困難に見舞われます。
今回は、「笠置シズ子とその楽団」の音楽活動について、史実を元に紐解いてみたいと思います。
「笠置シズ子とその楽団」の結成
松竹楽劇団が解散した後、昭和16年(1941年)3月、笠置シヅ子(当時の芸名は笠置シズ子)は松竹から独立し、自身の楽団「笠置シズ子とその楽団」を結成します。
服部良一の肝いりで一流のバンドマンたちが集められ、バンドマスターには服部の弟子で、ジャズのアレンジを得意とするトロンボーン奏者の中沢寿士が選ばれました。
中沢寿士は、テイチク全盛時代に編曲者兼レコーディングオーケストラとして腕を振るうと同時に、「中沢寿士とそのオーケストラ」を結成。アレンジ、演奏ともに一流のジャズマンでした。
戦後は、毎日放送の音楽番組でスタジオビッグバンドとして活躍。『素人名人会』では、笠置シヅ子らとともに、長く審査員を務めたことでも有名です。
また、ドラマーには高度なドラミング技術を持った浜田実が招聘され、総勢10名の豪華なバンド編成でした。
「笠置シヅ子とその楽団」は、おもに映画興行の合間に行われるアトラクションや劇場公演などに出演。ベニー・グッドマンの『シング・シング・シング』や『未完成交響曲』などのクラシックを中沢がジャズ風にアレンジしたスイング・クラシックを楽団が演奏し、『ラッパと娘』や『セントルイス・ブルース』、『センチメンタル・ダイナ』などをシヅ子が歌いました。
服部は独立したシヅ子のために曲を書き、邦楽座で「タンゴ・ジャズ合戦」を開催。淡谷のり子と共演の場を設けます。
一流の演奏とダイナミックなシヅ子の歌に興行は大成功となり、楽団の出だしは順調でした。
しかし、昭和16年(1941年)太平洋戦争が勃発。シヅ子は窮地に立たされます。
苦しい音楽活動と解散
独立したからには、歌手は自分の持ち歌で勝負しなければなりません。シヅ子のレパートリーの大半は、松竹楽劇団時代に服部に作曲してもらったジャズでした。開戦後、敵性音楽であるジャズが排除され、シヅ子は持ち歌を歌うことができなくなります。さらに付けまつげや派手な化粧も衣装も禁止され、「あなたの歌う雰囲気が良くない」と大きな身振りで歌うことまでも禁止されました。
シヅ子は苦肉の策として、適性音楽に当たらない南方歌謡『アイレ可愛や』や軍歌『大空の弟』、『真珠湾攻撃』を直立不動で歌いました。
『アイレ可愛や』は、レパートリーを制限されたシヅ子のために服部が提供した曲で、作詞は藤浦洸。宮本亜門さん演じる藤村薫のモデルです。
「アイレ」は「村娘」という意味で、南方戦線のジャワやスマトラをイメージしたエキゾチックな曲でした。
当時、流行歌手は軍からの要請で国外の戦地へ慰問を行っており、金銭面や食料面でかなり優遇されていました。
しかし、敵性歌手のレッテルを貼られたシヅ子に戦地への慰問の声はかからず、数少ない持ち歌で地方映画館の巡業や軍需工場への慰問を細々と続けるしかありませんでした。
さらに昭和17年(1942年)には中沢の召集によって楽団は縮小され、興行は低調でした。
地方都市を細々と巡業するだけでは大きな収入も望めず、楽団運営の資金繰りが厳しくなり、シヅ子は追い詰められていきました。
そんな彼女に追い打ちをかけるように、マネージャーがシヅ子に無断で楽団を興行会社に売却してしまったのです。
昭和19年(1944年)「笠置シヅ子とその楽団」は解散に至り、楽団を失ったシヅ子はソロで活動することになりました。
2019年に楽譜が発見された『大空の弟』
昭和16年(1941年)12月6日、笠置シヅ子の弟、亀井八郎が仏印で戦死したという知らせが届きます。出征してから3年後のことでした。
最愛の弟の死を受け入れられず意気消沈しているシヅ子。彼女のために、服部良一が作詞・作曲したのが、『大空の弟』です。
『大空の弟』はその存在は知られていたものの、楽譜も音源もなく、長い間幻の曲とされてきました。
ところが、2019年に楽譜が発見され、その内容が明らかになりました。
「かねてよりアジアを苦しめた青い目をしたヤンキーども」
かなり過激な歌い出しで始まる『大空の弟』は、途中シヅ子と弟の手紙のやり取りなどが散見され、戦地へ赴いた弟をしのぶ内容となっています。
戦時中、ジャズを封印されたシヅ子の数少ない持ち歌の一つで、シヅ子が歌った軍歌はこの『大空の弟』と『真珠湾攻撃』の2曲だけでした。
公募で作られた軍歌
昭和12年(1937年)日中戦争の勃発後、内務省が戦意高揚のため軍歌の制作をレコード会社に奨励するようになります。
軍歌はヒットにつながりやすく儲けを見込めるため、レコード会社は次から次へと軍歌を発売していきました。
「勝って来るぞと勇ましく」で始まる『露営の歌』(籔内喜一郎作詞、古関裕而作曲)は、毎日新聞社が公募した歌詞の入選作品がレコード化され、発売から半年で60万枚を売り上げています。
新聞社や出版社が競うように軍歌の歌詞を広く公募し、入選作品をレコード会社が発売。それを受けてラジオが全国に放送し、軍歌がヒットするという流れでした。
公募は新聞社や出版社だけでなく政府や軍部も行っており、内閣情報部が募集した「国民が永遠に愛唱すべき国民歌」の一等賞金は1000円でした。当時の公務員の初任給が75円だったことを考えると、かなり高額だったことが分かります。
この公募で作られた『愛国行進曲』は、レコード会社6社から発売され、売り上げ枚数100万枚の大ヒットになりました。
その後、太平洋戦争の開戦をきっかけに多数の軍歌が作られ、公募は戦争末期まで行われましたが、1945年(昭和20年)8月15日終戦を迎えると、軍歌はGHQによって禁止され、姿を消していきました。
参考文献:瀬川昌久『舶来音楽芸能史 ジャズで踊って』.清流出版
なんで左右に余白がないの?
読みにくいよ