「嫌なことがあったら、またこうして2人で隠れて、ちょっとおいしいものを食べましょう」
そう言って、優しく寅子に寄り添ってくれた優三さんが帰らぬ人となりました。
優三のモデル・和田芳夫氏もとても優しい人だったそうですが、残念ながら戦争で亡くなっています。
寅子のモデル・三淵嘉子さんと仲睦まじい夫婦だったという芳夫さん。
今回は、二人の結婚生活と芳夫さんの最期に迫ります。
嘉子に逆指名された和田芳夫
三淵嘉子(旧姓・武藤)が弁護士試験に合格したのは、26歳のときでした。25歳では嫁に行くのはちょっと遅いと言われた時代、嘉子の両親は行き遅れた娘を心配し、結婚相手探しに奔走していました。
何度も見合い話を持ちかけたものの、なかなか首を縦に振らない娘に苛立った父親が「誰か気になる人はいないのか」と尋ねると、嘉子は「実は和田さんが…」と答えました。
和田さんとは、一時期武藤家の書生をしていた和田芳夫です。
彼は嘉子の父親・武藤貞雄の親友の甥で、丸亀中学校を卒業後、昼間は会社勤めをしながら明治大学の夜間部で学んでいました。卒業後は、紡績会社の東洋モスリンに就職しています。
歴代の書生の中で一番おとなしくて優しい好人物だった芳夫に、嘉子の両親が反対する理由もなく、結婚話はとんとん拍子で進み、昭和16年11月三淵嘉子は和田芳夫と結婚しました。
池袋の借家で新生活を始めた二人は、当時としては珍しい共働き夫婦でした。
春のように暖かく楽しかった結婚生活
昭和18年長男の芳武が誕生し、三人は麻布笄町の嘉子の実家へと移りました。戦局はますます厳しくなり、制限の多い生きづらい世の中でしたが、初孫を可愛がる両親と優しい夫に囲まれ、笑いの絶えない毎日に幸せを感じる嘉子でした。
彼女は当時の結婚生活について
「娘の頃から望んでいた、春のように暖かく楽しかった結婚生活」
と語っています。
しかし、そんな結婚生活は長く続かなかったのです。
芳夫の出征
昭和19年、麻布の武藤家は空襲による延焼を防ぐために建物を取り壊す「建物疎開」の対象となり、嘉子たちは近隣の赤坂区高樹町に移りました。
同年6月、芳夫に召集令状が届きますが、以前患った肋膜炎が見つかり、戦地に赴くことはありませんでした。
しかし、同じ年に嘉子の弟の一郎が戦死しています。
輸送船で沖縄に向かう途中、鹿児島県徳之島の近海で米軍の魚雷を受け、船が沈没し亡くなったのです。
しっかり者だった長男の死に両親は大きく落胆し、一郎の妻と生まれたばかりの娘が残されました。海に沈んだため遺骨は戻らず、骨壺には遺品が入れられました。
翌昭和20年1月、芳夫に再び赤紙が届きます。戦争はすでに末期で、前年に召集解除された芳夫に再度召集令状が届くほど、国はせっぱつまった状態だったのでした。
芳夫は病気が完治していないと告げることもせず、出征しました。
嘉子の末の弟である武藤泰夫氏は、当時を思い出すと悔しくて仕方がないと次のように述べています。
「芳夫さんはそれまでも結核を病んで身体が弱かったんです。診断書を取って病気と主張できたはずです。ただ、芳夫さんはそういうことができる人ではなかった。身体の丈夫な人ではなかったのですが、それを隠すようにして、二度目の出征をしました」 清永 聡『三淵嘉子と家庭裁判所』
疎開先で苦労した三淵嘉子
芳夫が戦地に赴いて間もなく、連日の空襲によって東京の下町は焼け野原と化していました。
このまま東京にいては命が危ないと考えた嘉子は、息子・芳武と戦死した弟・一郎の妻子とともに福島県へ疎開します。
彼女たちが暮らした家は、板張りの床にゴザを敷いただけの家というより粗末な小屋でした。水はけが悪くジメジメしており、家の中はノミやシラミだらけで、電気はなく夜はランプを灯し、薪で煮炊きをする生活です。
嘉子たちはモンペ姿で近所の農家の手伝いをし、分けてもらった食料でなんとか糊口をしのぎました。女性初の弁護士や大学の助教授という肩書は、何の足しにもなりませんでした。
「それまでの私は、ほかの女の人と少し違った経歴を持っていましたが、やはり平凡な主婦の一人でした」 清永 聡『三淵嘉子と家庭裁判所』
嘉子は当時の自分をこう語っています。
そんな見知らぬ土地での絶望的で息の詰まりそうな苦しい生活に終止符が打たれたのは、昭和20年8月15日のことでした。
夫の死に、顔が紫色になるまで泣いた三淵嘉子
終戦を迎え、嘉子は福島から両親の住む川崎に戻りました。
戦時中、嘉子の父親は軍需工場を営んでおり、赤坂の家が空襲にあった後、両親は川崎市の工場近くにある社員寮に避難していたのです。
軍需産業だった工場は操業できなくなり、両親や弟たちを養うため嘉子は働かなければなりません。
彼女は再開された明治大学専門部女子部の講師をしながら、夫の帰りを待ち続けました。
芳夫からの便りはなく、どこでどうしているのか全く分からない状態でしたが、戦死公報が届かないことから、無事に帰ってくると嘉子は信じていたのでした。
しかしその願いもむなしく、昭和21年5月23日、芳夫は長崎の陸軍病院で息を引き取りました。
身体の弱かった芳夫は、戦地の中国で発病していました。
終戦後、上海の病院で入院生活を送り、昭和21年、やっと病院船で帰国できることになったのでした。
船に乗ってしばらくの間は、ほかの病人の世話ができるほど元気でした。優しい芳夫のことです。自分の身体も顧みず無理をしていたのかもしれません。船内で病状が悪化し、帰国後すぐに長崎の陸軍病院へと移されました。
嘉子の元に危篤を知らせる電報が届き、彼女は取るものもとりあえず芳夫の元に向かいましたが、長崎に到着した時、夫はもう亡くなっていたのでした。
身体が弱いのに無理をして出征し、やっとのことで祖国へ戻って来たというのに、あと一歩が届きませんでした。妻にも可愛い盛りの子どもにも会えず、芳夫は息を引き取ったのです。
夫の死に目に会えなかった嘉子は、顔が青膨れするほど泣いたといいます。
弁護士・佐賀千惠美氏の義理の母親である佐賀小里(こさと)さんは、当時、明治大学で三淵嘉子の講義を受けていました。彼女は夫を失った直後の嘉子について、次のように語っています。
「ご主人を亡くされ、嘉子先生はひどく泣いておられました。泣きすぎたために顔をむくませて学校に来られました。涙で顔が紫色になった人を見るのは初めてのことでした。そんな嘉子先生の憔悴ぶりは『夫が死ぬと、こんなつらい目にあうのか。それなら、私は結婚するまい』と思ったほどでした」 佐賀千惠美『三淵嘉子の生涯』
お見合いでの結婚が普通の時代に、自分が見初めた人と一緒になった三淵嘉子。
彼女が永遠に続いて欲しいと願った芳夫との幸せな結婚生活は、こうして幕を下ろしたのでした。
参考文献
清永 聡『三淵嘉子と家庭裁判所』.日本評論社
佐賀千惠美『三淵嘉子の生涯~人生を羽ばたいた‘’トラママ‘’』.内外出版社
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