朝ドラ『虎に翼』では、寅子の上司・多岐川の過去が明らかになりました。彼の再起のきっかけは、上野で見かけた戦争孤児でした。
戦争によって家族を失った「戦争孤児」はおよそ12万人にのぼり、戦後の社会問題の一つとなっていました。
今回は、生きるために犬も猫も食べたという戦争孤児の悲惨な生活に迫ります。
悪臭漂う地下道で暮らした戦争孤児
1945年3月10日の東京大空襲によって、親を失った多くの戦争孤児が生み出されました。親類縁者に引き取られた子や施設に入った子もいましたが、行く当てもなくホームレスになる子どももたくさんいました。
さらに戦後になると、学童疎開から戻ったものの親と会えなかった子や引揚孤児などの戦争孤児が増えていきます。
1948年2月に実施された厚生省の調査では、沖縄県を除いた全国の戦争孤児の数は12万3512人。広島県の5975人が最も多く、次いで兵庫県5970人、東京都5330人となっています。
調査対象は、数え年1歳から20歳までの戦争孤児で、8~14歳の孤児は全体の46.7%を占めていました。
戦争孤児は都市に集中し、路上生活を送る孤児は「浮浪児」と呼ばれました。
上野は、終戦直後から闇市がたち仕事と食にありつけるため、浮浪児にとって願ったりかなったりの土地でした。
特に上野駅の地下道は雨露をしのげる場所として、空襲によって家を失った人々や復員兵、引揚者であふれ、およそ2千人がねぐらとして利用していました。
浮浪児たちにとって、もっともつらかったのは欠食・降雨・不眠・孤独だったそうです。
家族を失って一人ぼっちになった子どもにとって、地下道は人恋しさを紛らわせてくれる場所でもあったようです。
しかし、衛生環境は最悪で、地面には排せつ物や吐しゃ物が放置されウジがわき、とにかく強烈な悪臭が地下道中に漂っていました。
夜中にトイレに行きたくなっても寝場所を奪われないようにと、地下道の中で用を足す人が多かったことも原因のひとつでした。
「地下道の壁に小便をひっかけてまた眠るんだけど、数十人、数百人が毎晩そんなことをするもんだからものすごい臭いになる。女もいたけど同じことをしてたよ。」『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』
戦争孤児たちの仕事
子どもたちは様々な生業をもっており、一番多いのが「もらい」でした。
「もらい」は弁当を食べている人から食べ物をもらったり、切符売り場で釣銭をもらったりして食料や収入を得る方法です。
その他にも露店の手伝い、靴磨き、タバコ拾い、人夫、闇屋の手先、新聞売り、タバコ巻き、焚火(たきび、暖をとるために有料で提供)、紙くず拾い、切符売り、田舎廻り(地方に行って手に入れた米や野菜を上野で売る)、アダルト写真売りなどで日銭を稼いでいました。
しかし、中には万引きやかっぱらい、スリの常習犯もいて、浮浪児は盗みや恐喝を働く犯罪者として見られるようになります。
人々は浮浪児というだけで、彼らを蔑むようになっていったのでした。
犬も猫も食べた
敗戦を機に、大人たちは驚くほど浮浪児に冷たくなりました。
というのも終戦の年の米の収穫量は、明治末期以来の大凶作で戦前の半分。他の農作物も例年の7割ほどの収穫しかなく、配給は減らされ、欠配が続き、とにかく食料がなかったのです。
誰もが自分のことで精いっぱいな状況の中、町で行われていた炊き出しは中止となり、上野の浮浪児に救いの手を差し伸べる人は減っていきました。
戦争被害者であるにもかかわらず、戦争孤児たちは世間から見放されたのです。
子どもたちは生きるために一日中食べ物探しに明け暮れ、ひったくりや万引き、ゴミあさりと食べるためには何でもし、食べられるものは何でも食べました。
隅田川や不忍池(しのばずのいけ)でザリガニや鯉をつかまえ、犬や猫まで食べたそうです。
暴れる犬を押さえつけ、さばくのを手伝わされた子どもは、犬の肉は臭いがきつく、味はうまいもまずいもなく「ただイヤな気持ちがしたのだけは憶えている」と語っています。
また極度の栄養失調から錯乱状態になり、道端に落ちていた犬の糞を食べて茶色の泡を吹いて亡くなった子どもや、苦しさに耐えられず自ら死を選ぶ子もいました。
地下道では毎日平均して2.5人、多い時で6人の餓死者が出ており、弱い子から順番に命を落としていきました。
売春婦になった少女たち
浮浪児となった戦争孤児の女の子は、いくら汚い恰好をしていても危険な目に合う可能性が高く、靴磨きのグループに入り男の子と一緒になって働くことで身を守っていました。
しかし、12歳くらいになると売春へと鞍替えする女の子もおり、町で声をかけてきた男の家を渡り歩く子や、おにぎり1個と引き換えに体を差し出す子もいました。
靴磨きをしていたと思えば、次の日にはパーマをかけて口紅を塗って道に立っていた子もいたそうです。
中には人身売買のブローカーに声を掛けられ、ともに暮らすようになった後、売春婦として売り飛ばされるケースもありました。
彼女たちは、12歳前後で体と引き換えに食事と寝場所を手に入れたのです。生きるために身も心も大人になる前から春を売ったのでした。
参考文献
本庄 豊『戦争孤児―「駅の子」たちの思い』.新日本出版社
石井光太『浮浪児1945-―戦争が生んだ子供たち―』.新潮社
浅井春夫・水野喜代志編『戦争孤児たちの戦後史3 東日本・満州編』.吉川弘文館
これが戦争の悲惨なところ、抵抗のできない子どもが犠牲になり、夢を見ることも許されない地獄を歩む。