
画像:黒塚古墳(奈良県) public domain
日本史において、3世紀中頃から7世紀頃にかけての時代は「古墳時代」と呼ばれる。
倭国が統合へと向かうこの時期には、各地で古墳が数多く築かれ、その代表とされるのが「前方後円墳」である。
実際には、全体のおおよそ9割を円墳が占めるにもかかわらず、歴史の教科書などには、古墳と言えば一番に「前方後円墳」が挙げられ、考古学者の多くも「前方後円墳」こそが古墳の最も基本的な形と位置付けている。
では、なぜ前方後円墳が古墳を象徴する存在となったのか。
本稿では、その理由と背景について考察していきたい。
さまざまな形の古墳の中で、ほとんどが「円墳」

画像:最大級の円墳・丸墓山古墳(埼玉県)public domain
日本には、約16万基もの古墳が存在するとされている。
これは、日本全国にあるコンビニエンスストアの数よりも多いと言われるほどだ。
その古墳の形のうち、最も基本的なものが円墳と方墳である。
前述したように、とりわけ円墳は圧倒的に多く、全体の約9割を占めるとされる。
そして、この円形と方形の墳丘を組み合わせたものが、古墳時代を象徴する「前方後円墳」である。
しかし、その数は意外なほど少なく、約4,700基にとどまり、これは、全古墳のわずか3%ほどにすぎない。
古墳の形は実に多種多様である。
円墳、方墳、前方後円墳だけでなく、形状の組み合わせによってさらにさまざまなバリエーションが生まれた。

画像:双円墳の金山古墳(河南町)
例えば、円墳同士を並べた「双円墳」、方墳同士を繋げた「双方墳」が知られている。
さらに3つの墳丘を連結したものもあり、円墳+方墳+円墳の「双方中円墳」、方墳+方墳+方墳の「双方中方墳」といった形も確認される。
また、異なる形状の墳丘を上下に重ねるケースもある。
下部を方墳、上部を円墳とした「上円下方墳」はその代表例であり、終末期(7世紀頃)に天皇陵に採用された「八角形墳」もこの墳丘形の発展した一つといえるだろう。
大王家が採用して主導した墳形が「前方後円墳」だった

画像:纏向石塚古墳(撮影:高野晃彰)
さて、ここからは、なぜ前方後円墳が古墳時代を象徴する形となったのか、その核心に触れていきたい。
その有力な答えの一つが、古墳時代の黎明期に造られた墳墓が、すでに前方後円墳の形態を備えていたことである。
ただしこの時期は、前方後円墳といっても初期形態のもので「帆立貝式古墳」とも呼ばれている。
その古墳こそ、邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市・纏向(まきむく)遺跡に築かれた、全長約93メートルの「纏向石塚古墳」である。

画像:石塚古墳墳丘図(撮影:高野晃彰)
この古墳は、発掘以前には直径40メートルほどの円墳と考えられていた。
しかし、1989年の発掘調査によって状況は一変する。
全長は約93メートルに達し、墳丘からは西暦180年頃にまで遡るとされる纏向1類土器が出土した。
さらに、周濠から得られた木材は、年輪年代法によって西暦200年前後という驚くべき年代を示したのである。
これらの成果を踏まえ、纏向石塚古墳の築造年代は西暦200〜220年頃、すなわち3世紀初頭と推定され、この古墳こそが現時点で最古の古墳と考えられるに至った。

画像:勝山古墳(撮影:高野晃彰)
纏向遺跡には、この纏向石塚古墳をはじめとする、纏向型前方後円墳(纏向型古墳)が複数確認されている。
これらはいずれも前方部が低く小さいという特徴をもち、この形態こそが「帆立貝式古墳」と呼ばれる初期的な前方後円墳なのである。
そして、纏向型前方後円墳(纏向型古墳)は、西暦300年前後に、前方後円墳の完成形ともいえる姿を出現させる。
その古墳が、考古学者や研究者の間で卑弥呼の墓の有力候補とされる「箸墓(はしはか)古墳」である。

画像:箸墓古墳(撮影:高野晃彰)
この箸墓古墳を見本として、大王や有力な王家はもちろん、地方の有力豪族たちの墓も同じ前方後円墳の形式に倣って造営されていくようになる。
すなわち古墳時代とは、ヤマト政権の大王を中心に、各地の首長たちがその地位と権威を示すため、共通の墓制を共有した時代であったといえる。
このような点から、古墳といえば前方後円墳というイメージが定着するようになったのである。
※参考文献
武光誠著 『古墳解説 古代史の謎に迫る』河出書房新社刊
文:撮影 /高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部
























そもそも前方後円墳が何故、円墳と方墳を組み合わせた形になったかの定義が必要だろう。
方墳は四隅突出型墳を起源とする出雲系墳墓が起源とすれば、古代神話の出雲の国譲りに遡りヤマト王権に制服された出雲族は円墳のヤマト王権に平伏した事になる。
円墳に対し方墳が平伏し、吸収されて行く様を表していると考えています。
その証拠に前方部が後円部より必ず低くなっています。
九州北部から関東まで統一された平和とヤマト連合国家の象徴として連合国家の首長に許された前方後円墳だろう。
例外は前方後方墳ですが、全国に140基ほど認められる希少な存在ですが、ヤマト王権が出雲占領後、
王権の同和政策で全国に分散移住した大国主命の直系子孫である180柱の皇子の墓でヤマト王権管理下の出雲族の墳墓を表していると思う。
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