箸墓(はしはか)古墳は、全長約280メートルを誇る巨大前方後円墳で、邪馬台国畿内説の有力地として知られる纏向(まきむく)遺跡の中に位置している。
三味線の撥のように大きく開く前方部の形状から、築造時期は3世紀中頃から後半の「出現期古墳」に位置づけられ、多くの研究者が邪馬台国女王・卑弥呼の墳墓ではないかと推測してきた。
その箸墓古墳から、今年2月中旬、同古墳では2例目となる遺構「渡り土堤(どて)」が新たに発見されたのである。
箸墓古墳から発見された「渡り土堤」の意味

画像:箸墓古墳から発見された「渡り土堤」。南側は洪水により削り取られている(写真:桜井市立埋蔵文化財センター)
このニュースは、2月19日に桜井市教育委員会から発表された。
箸墓古墳で「渡り土堤」が確認されたのは、これで2例目となる。
宮内庁が、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の陵墓として管理している同古墳は、墳丘内部の調査ができない。
そのため、墳丘外で確認される遺構は、古墳の構造を知るうえで極めて重要な資料として注目される。
今回発見された渡り土堤は前方部南側に位置し、発掘調査によって確認された。
断面は台形状で、上部の幅は2メートル以上、高さは1.1メートル以上、長さ6.4メートル分が検出され、墳丘へ向かって延びていた。
箸墓古墳の内濠は幅約10メートルで墳丘を囲み、水が溜められていたと考えられている。
また、古墳は緩やかな傾斜地に築かれており、後円部北東側と前方部北側の内濠底には約8メートルの標高差がある。
この地形条件から、渡り土堤は、内濠に水を均等に溜めるための堰堤の役割を持っていた可能性が指摘されている。
そして水量を調節するため、複数設けられていたことも推測されている。

画像:今回の調査地位置図(史料:桜井市立埋蔵文化財センター)
一方で、この構造を利用して、古墳外から墳丘へ人が往来した可能性も否定できない。
古墳は単なる埋葬施設ではなく、首長を祖霊として祀る祭祀空間でもあったからだ。
つまり渡り土堤は、周濠を越えて墳丘へ向かう「土の橋」であり、儀式のための「参道」としての役割も担っていた可能性もある。
このように渡り土堤の用途は一つに限られないが、箸墓に続く時代の巨大古墳である渋谷向山古墳でも複数の渡り土堤が確認されており、そのルーツが最初期の箸墓古墳にあることが裏付けられた形となった。
桜井市纒向学研究センターの寺沢薫所長は、「古墳に内濠が造られたのは、周囲から隔絶させるため」とし、特に貯水機能の重要性を指摘する。
さらに「傾斜地に築かれた巨大古墳の周濠に水を溜めたのは、古墳が中国の神仙思想に基づき、仙人が住むとされた海上の蓬莱山を模した可能性がある」と、その思想的背景についても言及している。
箸墓とヤマト王権との繋がりがますます有力視される

画像:「渡り土堤」の現地説明会風景。6世紀の洪水跡も確認できる(写真:桜井市立埋蔵文化財センター)
弥生時代から古墳時代への過渡期に築造されたとみられる箸墓古墳で、2例目となる渡り土堤が確認された意義は大きい。
卑弥呼の墓かどうかという議論はさておき、この構造が、その後の大王墓にも採用されていく「原型」であることが明らかになりつつあるからだ。
つまり箸墓古墳の被葬者が、ヤマト王権の形成と関わる中核的な存在であった可能性は高まったといえる。
今回の発見は、墳丘内部を調査できない箸墓古墳において、外側からその実像に迫る大きな手がかりとなった。
今後、墳丘周辺でのさらなる遺構の発見が期待される。
※参考文献
武光誠 『古墳解読』河出書房新社
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

























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