日本の歴史における古墳時代とは
日本史の時代区分の一つに「古墳時代」があり、大王家や有力豪族を始めとする人々が、大小様々な墳墓を造営した時代をいいます。
古墳とは文字通り「古い墳墓」という意味です。古墳は一般には、ヤマト国家の3世紀後半(西暦250~300年)から7世紀末(西暦700年)までに造られた墳墓を指します。奈良時代に入るともう古墳とはいわず、墳墓となるわけです。
この期間、北海道・東北北部・南西諸島を除く日本列島各地に、前方後円墳・円墳・方墳・八角形墳など、様々な形の古墳が数多く造営されました。その数は16万を超えるともいわれる膨大なもので、この約400年間の時代が、古墳時代と呼ばれているのです。
ほとんどの陵墓は別人の墳墓
古墳の中で、ヤマト国家の大王、すなわち後の天皇たちの墳墓とその一族の墓を大王墓・陵墓と称します。そうした古墳は、天皇陵と名付けられた古墳を中心に900基近くも存在し、その全てが陵墓・陵墓参考地として宮内庁の管理下にあります。そこは、一切の立ち入りが禁止され、学術的な発掘調査も厳禁なのです。
ですから大王墓のほとんどは、発掘など学術的な調査に基づくことなく治定されています。しかもその多くが、幕末に認定したそのままを継承しているので、90%近くが全く別人の墓なのです。こうした理由で、天皇陵に関しては学者・研究者により解釈が異なるものの、本当に確実なものは、後述する僅か2基ほどの古墳といわれています。
では、宮内庁が定めた大王・天皇の陵墓で、学術的にもほとんど疑問がないとされる天皇陵は誰の古墳なのでしょうか。ちなみに初代神武帝から9代開化帝までは、実在性が薄い天皇たちであると考えられることから、ここでは省きます。
先ずは10代崇神帝から32代崇峻帝までを古墳時代。33代推古帝から42代文武帝までを飛鳥時代と区分して、各御陵の信憑性を見ていきましょう。
古墳時代の天皇陵の信憑性は?
古墳時代の天皇は、23人。
10代崇神・11代垂仁・12代景行・13代成務・14代仲哀・15代応神・16代仁徳・17代履中・18代反正・19代允恭・20代安康・21代雄略・22代清寧・23代顕宗・24代仁賢・25代武烈・26代継体・27代安閑・28代宣化・29代欽明・30代敏達・31代用命・32代崇峻と続きます。
最初の実在する天皇と考えられる崇神帝をはじめ、交代王朝の祖とも考えられる応神帝。日本一の大きさを誇る天皇陵に治定される仁徳帝。そして、倭の五王の一人に有力視される雄略帝。現在の皇統の鍵を握ると考えられる継体帝など、日本史上でも著名な天皇が並びます。
しかし、驚くことに、この23人の天皇の御陵は天皇の真陵、すなわち本物の陵墓としては、誰一人として確実性がないのです。
飛鳥時代の天皇陵の信憑性は?
飛鳥時代の天皇は、33代推古・34代舒明・35代皇極・36代孝徳・37代斉明・38代天智・39代弘文・40代天武・41代持統・42代文武の10人。
この内、本物の陵墓に葬られているのが確実なのは、天智帝、天武帝、持統帝(天武と合葬)の3名です。ただ、学者・研究者によっては確実性が高い陵墓と考えられている、用明帝、推古帝、舒明帝がいます。しかし、この3人を含めても、わずか6人・5基という衝撃の事実があるのです。
学術的に天皇の真陵と考えられる古墳
前述したとおり大王墓・天皇陵の調査は宮内庁により禁止されています。しかし、皮肉なことに宮内庁が治定した古墳とは別に、天皇の真陵と確実視される古墳が存在するのです。
それが、26代継体帝・大阪府高槻市の今城塚古墳。29代欽明帝・奈良県橿原市の見瀬丸山古墳。32代崇峻帝・奈良県桜井市の赤坂天王山古墳。37代斉明帝・奈良県明日香村の牽牛子塚古墳。そして、42代文武帝・奈良県明日香村の中尾山古墳です。
この5つの古墳は、発掘調査で発見された遺物など考古学的見地、記紀や延喜式などの文献学的見地から、真陵として間違えがない古墳とされます。
しかし、宮内庁はこうした事実に一切耳を傾けず、江戸時代から続く学術的な根拠が全くない古墳を、頑なに天皇墓・陵墓として治定し続けているのです。
江戸時代に造られた古墳が天皇陵に
さらに驚くのが、真陵を否定するだけでなく、明らかに江戸時代に意図的に新造されたものまでも、宮内庁が天皇陵として治定していることです。その代表例を挙げてみましょう。
大阪府羽曳野市にある丹比高鷲原陵は、21代雄略帝の御陵です。この古墳は幕末に、高鷲丸山古墳(円墳)と、平塚古墳(方墳)を繋ぎ合わせ、無理やり前方後円墳にしてしまいました。現在の雄略天皇陵は、常識的に考えれば、雄略帝の真陵であるはずがないのです。
同じような例は天皇陵ではありませんが、陵墓に指定される奈良県橿原市の倭彦命墓(10代崇神帝の皇子)が挙げられます。この古墳は大規模な方墳を円墳に直し、新たに後円部に土盛りをして前方後円墳に造り替えました。
さらに、現在の学会では実在性がほとんど否定されている、初代神武帝から9代開化帝までの陵墓もその多くが江戸時代に築かれたものです。
こうした天皇たちの古墳の正体は、新たに一から造った神武天皇陵などを除けば、自然の丘であったり、別人の古墳を意図的に改造したものなのです。
まとめにかえて
古墳は古代史の謎を解き明かす大きな鍵とされます。だからこそ、発掘などの学術調査を行い、その実態を解明することが重要なのです。
しかし、そこに宮内庁による管理という現実が立ちはだかります。日本で最大の前方後円墳はいうまでもなく全長486mの大山古墳・仁徳天皇陵古墳です。この大山古墳を頂点として30位までの大きさの前方後円墳の内、23基が宮内庁が管理する陵墓・陵墓参考地として、調査が行えない古墳となっています。
もちろん、古墳は大小に関わらず、その遺物は大変価値があるものです。しかし、規模の大きな古墳は、高い身分の人物が埋葬されている可能性が高いため、そこから発見される遺物は歴史を動かすきっかけになるかもしれません。たとえ盗掘により副葬品のほとんどが失われていたとしても、多くの陵墓・陵墓参考地は、その可能性を秘めているといっても過言ではありません。
天皇といえども、個人には変わりありません。陵墓公開に反対する人々の多くは、学術調査の名のもとに他人の墓を暴く暴挙は許せないと主張します、しかし、どうでしょう。現状のように全くの別人の古墳を天皇陵・陵墓として祀り続けるのは、それこそ天皇に対して失礼なのではないでしょうか。
そうした観点からも、宮内庁にはぜひ学術調査への道を開いてもらいたいと思います。
※参考文献
矢澤高太郎著『天皇陵の謎』文春新書、2019年5月
発掘した瞬間から劣化が始まることを考えれば、あえてそのままにしておくのも一理あるけど、正体や詳細が分からないまま、文字通り埋もれたままにしておくもこれまた正しいとは言い難い。
関心を高めるためにも定期的にいくつか発掘調査して公表・展示してほしいけど、文化庁と宮内庁がなんかモメそうなのが目に見える。