
画像:マリア・カロリーナ・ダズブルゴ public domain
18世紀のヨーロッパは、政治的な激動と複雑に絡み合う王室関係が特徴の時代でした。この時代、多くの女性たちが歴史に名を刻んでいます。
その中でも、フランス王妃として知られるマリー・アントワネットは、1793年10月16日、フランス革命の象徴として断頭台の露と消えました。
そしてこのアントワネットには、同じく他国の王室に嫁ぎながら18人の子を産み、猛々しく政治的辣腕をふるった実姉マリア・カロリーナがいました。
同じ両親の元に生まれ、共に王へと輿入れし、同じ時代を生きたにも関わらず、何が彼女たちの命運を分けたのでしょうか。
今回はその足跡をたどります。
幼少期は仲の良い姉妹

画像:仲の良い姉妹であった少女時代のアントワネット public domain
マリー・アントワネットとマリア・カロリーナは、オーストリアの名門ハプスブルク家に生まれ、幼少期を共にしました。
多くの兄弟姉妹の中でも、三歳違いの二人は特に親しく、同じ部屋で生活しながら絆を深めたのです。
しかし、両者の教育方針は異なりました。
姉マリア・カロリーナは、父・神聖ローマ皇帝フランツ1世と母・皇后マリア・テレジアから、王族としての責務を果たすための教養と心構えを徹底的に叩き込まれました。彼女は非常に聡明で、政治的な洞察力に優れ、特に王族の婚姻が単なる個人の結びつきではなく、国家間の戦略であることを深く理解していたのです。
一方で、妹マリー・アントワネットは両親からの期待を背負いながらも、婚姻後はフランス王室の文化や形式には馴染めませんでした。束縛の多い宮廷での生活から逃れ、離宮のプチトリアノンで自身のための時間を多く過ごしたことは、よく知られています。
元よりアントワネットは、強い政治的意志を持つというよりも、純粋無垢な少女として育ちました。
しかし、その無邪気さが裏目に出た結果、フランス革命の混乱の中で「無力な王妃」として運命に翻弄されることとなったのです。
政治的役割としての結婚

画像:夫フェルディナンド1世 public domain
カロリーナは、妹アントワネットに先立つこと2年、1768年にイタリア半島ナポリ王国のフェルディナンド1世と結婚し、ナポリ王妃となりました。
この婚姻は、母マリア・テレジアによるオーストリアの戦略的判断のもと、ナポリ王国との同盟を確立するために進められたものであり、強い政治的意図が込められていました。
本来、ナポリ王妃となるはずだったのは皇女ヨハンナでしたが、彼女は天然痘で急死しました。次に花嫁候補となったのは13歳の妹ヨーゼファでしたが、彼女も婚約後に病で亡くなりました。そこで、残る婚姻可能な皇女の中から、ナポリ宮廷に送られた肖像画をもとにカロリーナが選ばれたのです。
このことからもカロリーナにとっての婚姻とは、個人同士のものではなく、国家間を結び付けるための手段であったことがうかがい知れるでしょう。
彼女の結婚相手であるフェルディナンド1世は、当初優れた統治者であるとは見なされていませんでした。実際、ナポリ王国はスペイン・ブルボン家の影響下にあり、彼自身も積極的な政治姿勢を示さない人物でした。
しかし、カロリーナはこの結婚を通じて、ナポリ王国の改革に関与する機会を得ようと考えていたのです。
実際、母マリア・テレジアは彼女の結婚契約において、王妃にも政治的役割が与えられることを明記させており、これが後の彼女の政治的影響力につながっていくことになります。
張り子の国王、お飾りを越えた王妃
結婚後、カロリーナは強いリーダーシップを発揮しはじめます。

画像 : 1759年から1776年までナポリとシチリア島の事実上の統治者であったベルナルド・タヌッチ侯爵 public domain
まず彼女は、ナポリを実質的に統治していた宰相ベルナルド・タヌッチを追放しました。
タヌッチはスペイン・ブルボン家の意向を受け、長年にわたりナポリ王国をマドリードからの遠隔支配のもとに置いていましたが、マリア・カロリーナはこれを断ち切ることでナポリの独立性を強化しようとしたのです。
また、軍事面でも改革を進め、ナポリ軍の指揮体制を強化し、兵員の訓練や装備の改善に着手することで軍隊の再編を試みました。
また、彼女はフリーメーソンとも関わりを持っていたとされています。

画像 : 18世紀の備品。壁にプロビデンスの目 public domain
フリーメーソンは16世紀以降に広がった友愛団体で、理性・自由・平等といった理念を掲げていました。
彼女の積極的な参加は、ナポリ王国における政治的な変革に繋がる一因となります。
カロリーナはこの結社の理念に従って、ナポリ王国での社会改革を進め、民衆の教育水準を引き上げようとしました。こうして彼女は指導者としても評価され、ナポリの政治に大きな変革をもたらしたのです。
一方、妹アントワネットもまた、フリーメーソンや啓蒙思想家たちと交流があったと言われていますが、結社の活動に直接参加したという正式な記録は残っていません。
とはいえ、彼女が接していた宮廷の思想家や啓蒙派の影響は無視できず、フランス革命を準備する土壌を作る要因の一つとなったともいえるでしょう。
「フランス革命」の嵐の中で生きる

画像:1791年にエリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランの絵画に登場したマリア・カロリーナ。彼女と妹のマリー・アントワネットはよく似ていた public domain
その後、フランス革命が進行する中で、ナポリ王国、そしてカロリーナ自身もその影響を受けることとなります。
妹アントワネットが処刑されるという衝撃的な出来事に深く悲しむ一方で、彼女の死がフランス王政の終焉を象徴する事実であることをカロリーナは悟っていました。
彼女はナポレオンの勢力拡大を非常に懸念し、ナポリ王国を守るために外交と軍事の両面で奔走しました。しかし、戦局は厳しく、度重なる心労から一時期はアヘンを常用するほどに疲弊していきます。

画像 : ナポレオン1世 public domain
それでも、一時的には反撃に成功し、夫フェルディナンドもナポリ王として辛うじて実権を取り戻すことができました。
しかし最終的には1806年、ナポレオンによってフェルディナンドはナポリ王位を追われ、夫妻はシチリア島に移ることとなります。
カロリーナはシチリア島で、息子フランチェスコ王子(のちの両シチリア王フランチェスコ1世)の摂政として政治に関与し続けました。しかし次第に息子との対立が深まり、最終的には政界から排除され、オーストリアへの亡命を余儀なくされたのでした。
そして1814年9月8日、マリア・カロリーナはウィーンで脳溢血により病没しました。
最期の訪問客に対して「私は長生きしすぎました」と語ったと伝えられています。
激動の時代を生き抜いた彼女にとって、60年余りの人生は、実際の時間以上に長く感じられていたのかもしれません。
妹マリー・アントワネットと姉マリア・カロリーナ。同じ時代を生きながらも、彼女たちの歩んだ道は大きく異なりました。しかし、それぞれの立場で果たした役割を通じて、18世紀のヨーロッパに確かな足跡を残したと言えるでしょう。
参考:『ロイヤルカップルが変えた世界史 上:ユスティニアヌスとテオドラからルイ一六世とマリー・アントワネットまで』/ジャン=フランソワ・ソルノン (著),神田 順子(翻訳),松尾 真奈美(翻訳),田辺 希久子(翻訳)
文 / 草の実堂編集部
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