西洋史

「逆玉も楽じゃない?」王冠なき王アルバートと、英国女王ヴィクトリアの絶妙な権力バランス

画像:ヴィクトリア女王一家 public domain

19世紀中盤、英国の政治と社会の変革を象徴する存在が、ヴィクトリア女王アルバート王配の関係でした。

ヴィクトリア女王は1837年に即位し、1901年に崩御するまでの長きにわたり統治を行い、その治世は「ヴィクトリア時代」として知られています。

彼女の夫であるアルバート王配は、単なる配偶者にとどまらず、王室の在り方を改革し、政治や文化にも影響を与えました。

一方で、この2人の関係は単なる理想的なロイヤルカップルというものではありませんでした。

気性が激しく感情を表に出しやすいヴィクトリアと、冷静で勤勉なアルバートの間には、どのような力関係が存在していたのでしょうか。

今回は、夫妻の歩みをたどりながら、そのバランスの変遷を探っていきます。

王位継承者の花婿選び

画像:戴冠式のヴィクトリア女王 public domain

1836年、17歳の若さで王位継承者と目され、母であるケント公爵夫人と共にケンジントン宮殿で暮らしていたヴィクトリアの元には、花婿候補たちが次々と訪れていました。

しかし、訪問者である若いプリンスたちへのヴィクトリアの評価は辛辣で、オランダ王族であるオラニエ家の2人の公子たちにいたっては、醜く愚鈍と感じるほどでした。

ちなみにヴィクトリア自身は身長145cmほどで、生涯彼女を悩ませる肥満が既に身体に現れていました。
教養に関する好奇心は控えめで、後に夫となるアルバートとは対照的でした。

ともあれ、数いた候補の中で彼女の目を引いたのは、現在のドイツにあたる公国ザクセン=コーブルク=ザールフェルトの2人の王子、エルンストとアルバートでした。

とりわけアルバートの容姿を気に入っていましたが、舞踏会などの社交には関心を示さなかったアルバートは、ほとんど部屋にこもっていたため、二人の関係に大きな進展はありませんでした。

しかし、同年にウィリアム4世が崩御し、ヴィクトリアが即位すると、ベルギー国王レオポルド1世の勧めもあり、アルバートが再び花婿候補として浮上しました。

アルバートは容姿こそ整っていたものの、英語が得意ではなかったため、ヴィクトリアは当初ためらいもあったようです。

しかし、再会を果たすと改めて彼の容姿の良さに高揚し、再会の4日後には彼女の方からプロポーズを果たしたのです。

逆玉も楽じゃない

画像:1840年時のアルバート公子 public domain

けれども、アルバートの前途は棘だらけと言っても差し支えのない状態でした。

このドイツ人プリンスに対し、イギリス議会は帰化することに異存はないものの、どのような身分を与えるかについて意見が割れ、結論が出せなかったのです。

そのため、最終的にヴィクトリア自身が王令により「公式な場において優先される上席権について、プリンスは女王に次ぐ権利を持つ」と決定せざるを得ませんでした。

しかし、議会の同意を得られないままの決定は、国外における上席権の問題を片付けることができませんでした。
よって大ブリテン島を一歩出れば、アルバートは自身の扱われ方に大いに不満を抱くであろう可能性が残ったのです。

もはや、イギリス政界がこの外国からのプリンスを歓迎していないことは明白でした。それを裏付けるように議会は、アルバートに肩書、軍隊での階級、貴族院での資格も与えないことを決定したのです。

王族費に関しても、アルバートが求めた5万ポンドのうち、認められたのは3万ポンドのみでした。
それは「アルバートは、たまたま女王の夫となった外国の公子に過ぎない」と言わんばかりの扱いでした。

あくまでアルバートは、実権や王位継承権を持たない、女王の配偶者たる「王配」に過ぎなかったのです。

産休がもたらしたパワーバランスの変化

画像:1854年のアルバートとヴィクトリア public domain

それでも2人の私的な間柄は仲睦まじいもので、新婚の間にヴィクトリアが親族に送った手紙には、結婚生活の幸福さが熱烈に綴られていました。

しかし、ヴィクトリアはアルバートを熱愛する一方で、夫と権力を共有することに関しては頑なに拒否していました。
アルバートは国務に関する文書の閲覧を一切許されず、宮廷内の事案についても何も知らされませんでした。
ヴィクトリアは毎日のように首相と長時間話し込み、国務に勤しむ一方で、夫アルバートの公的な立場、公務に関しては文字通り放置だったのです。

けれども、このパワーバランスは徐々に変化をしていきます。それはヴィクトリアの度重なる妊娠と出産がきっかけでした。

1840年11月に長女ヴィクトリアが誕生して以降、女王は9回の出産を経験します。世継ぎを産むことは君主としての義務でもありましたが、そのたびに公務を中断せざるを得ない状況に、ヴィクトリアは苛立ちすら覚えていました。

一方、アルバートは外交に対する知見を持ち、真面目な性格から次第に周囲の信頼を得ていきました。産褥期を私室で過ごすしかないヴィクトリアに代わり、枢密院会議に代理出席するようになり、外交関係の書類を彼女に届ける役目を負うようになります。

この女王の私設秘書かのような役割を、アルバートは喜んで買って出ていました。

こうしてアルバートが政府文書の内容を把握するようになると、彼は自然な流れで妻に助言を与え始めました。これに対しヴィクトリアは君主としての苛立ちを覚えながらも、妊娠・出産を繰り返したため、夫の存在感が高まることを受け入れざるを得ませんでした。

限りなく続く公務の補佐を控えめに、生真面目に行うアルバートに対し、人々の評価は次第に高まっていきます。

王配として軽んじられていた彼は、やがて「王冠なき王」として、事実上ヴィクトリアと共に英国政治の舵取りをする存在となっていったのです。

早すぎる永遠の別れ

画像:1861年のアルバートとヴィクトリア public domain

こうして、絶妙なバランスの上に成り立っていたヴィクトリア女王夫妻の関係は、1861年12月14日、アルバートの死によって終焉を迎えました。

42歳という若さでこの世を去った夫の死は、ヴィクトリアにとって計り知れない衝撃と深い悲しみをもたらしました。
彼女はその喪失感から立ち直ることができず、以後1901年に崩御するまで、喪服を纏い続けました。

アルバートの死後、ヴィクトリアは10年間公務を控え、ほとんど人前に姿を現さなくなりました。

しかし、彼女が王位にある限り、国の象徴として君臨し続けなければならない運命からは逃れられませんでした。
彼女の統治はアルバート亡き後も30年にわたり続き、その間、イギリス帝国は最盛期を迎えました。

イギリス黄金期の礎はアルバート王配の知性と人柄、そしてヴィクトリア女王の強い政治的意志が結びつくことによって、築かれていたといっても過言ではないでしょう。

参考文献:『ロイヤルカップルが変えた世界史』ジャン=フランソワ・ソルノン(著) 神田 順子(翻訳) 清水 珠代(翻訳)他
文 / 草の実堂編集部

草の実堂編集部

投稿者の記事一覧

草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

✅ 草の実堂の記事がデジタルボイスで聴けるようになりました!(随時更新中)

Youtube で聴く
Spotify で聴く
Amazon music で聴く
Audible で聴く

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

関連記事

  1. ジェーン・グレイ【イギリスの9日女王】について調べてみた
  2. 『奈良の長谷寺』と『鎌倉の長谷寺』関係性はあるのか?両寺に伝わる…
  3. 【世界三大美女】クレオパトラの生涯と悲劇的な最後 ~実はギリシャ…
  4. 若き日のナポレオン 〜いじめられていた少年時代 【歴史大作映画”…
  5. なぜ寺院にアジサイが植えられているのか【死者を悼む弔いの花?】
  6. なぜ伊勢神宮が全神社の頂点に立ち、日本国民の総氏神とされるのか?…
  7. 『悪魔崇拝』していたとでっち上げられ、処刑されたテンプル騎士団
  8. 【日本近代化の隠れた功労者】ファン・カッテンディーケのメッセージ…

カテゴリー

新着記事

おすすめ記事

日本で最初の「給食」は世界遺産・富岡製糸場だった

給食とは、特定多数人のために専門の施設を用いて組織的、継続的に提供される食事のことである。…

『知られざる宇治の世界文化遺産』 宇治上神社に行ってみた

世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素「古都京都の文化財」は、1994年にユネスコの世界文化…

フランス革命に散った王妃マリー・アントワネットの愛人・フェルセン伯爵のラブレター、解読に成功

報道によると2020年6月3日、フランス王妃マリー・アントワネット宛てに出された彼女の愛人・フェルセ…

中国の人身売買が無くならない理由 「8人の子供の母親事件」

前編では中国の児童誘拐や人身売買の概要について解説した。今回は、人身売買が今もなくならない理…

山東京伝に私淑した振鷺亭とは何者?その作品と生涯をたどる【べらぼう外伝】

江戸時代は2世紀半にわたり天下泰平が続き、色々あっても様々な文化が花開く黄金期の一つでした。…

アーカイブ

人気記事(日間)

人気記事(週間)

人気記事(月間)

人気記事(全期間)

PAGE TOP