西洋史

『ガリヴァー旅行記』の裏にあった、もっと恐ろしい書物とは ~作者スウィフトの狂気

ジョナサン・スウィフト(1667年〜1745年)は、18世紀のイギリス文学を代表する作家です。

社会の矛盾や人間の本質を、鋭い風刺を通して描き出したことで知られています。

なかでも有名なのが、1726年に発表された『ガリヴァー旅行記』です。

架空の航海記という形をとりながら、政治や科学、宗教、そして人間そのものを痛烈に批判したこの作品は、今なお多くの人に親しまれています。

画像:リチャード・レッドグレーブによる『ブロブディンナグの農夫に見世物にされるガリヴァー』public domain

スウィフトの著作は、一見、空想的でユーモラスに見えることもありますが、その底には厳しい社会批判と深い絶望感が込められています。

なかでも、1729年に発表された風刺的エッセイ『アイルランドの貧民に対する穏健なる提案(A Modest Proposal)』では、衝撃的な内容が提示されました。

その内容と、当時の時代背景について触れていきたいと思います。

スウィフトの孤独

画像:ジョナサン・スウィフトの肖像画(1718年) public domain

ジョナサン・スウィフトは1667年、アイルランドのダブリンで生まれました。

生まれる前に父を失い、母とも幼い頃に別れるという不遇な境遇の中で育った彼は、幼少期から孤独と貧困に苦しんできました。
このような環境が、彼の作品に見られる冷徹な人間観や強い皮肉精神を育んだと考えられます。

スウィフトはダブリンのトリニティ・カレッジを卒業した後、政治や宗教への関心を深め、イングランドとアイルランドを行き来しながら文筆活動を続けました。

当時の保守的な政党で、現在の保守党の前身にあたるトーリー党の支持者としても知られ、政治パンフレットの執筆を通じて名声を得ていきます。

しかし晩年の彼は、長年にわたる病と精神的な衰弱に悩まされ、最終的には認知機能の低下により会話も困難となり、孤独のうちに生涯を終えました。

苦しみぬいたアイルランドの民

スウィフトが『アイルランドの貧民に対する穏健なる提案』を著した1729年当時、アイルランドは深刻な苦境にありました。

12世紀にイングランド王ヘンリー2世による侵攻が始まって以来、それまで脈々と続いていたアイルランドの土着支配層は次々に滅ぼされ、アイルランドはイギリス本島によって税収を吸い上げられる従属的な土地と化していったのです。

画像:クロムウェルの像 wiki c Eluveitie

さらに17世紀半ばには、イングランドの護国卿オリバー・クロムウェルによる軍事侵攻が行われ、事態は一層深刻化します。

熱心な清教徒であったクロムウェルにとって、カトリック国家アイルランドは宗教的にも政治的にも敵であり、多くの市民が虐殺されました。
推定では、アイルランドの人口の約3分の1が命を落とすか、国外に追放されたといわれています。加えて、侵攻の直後に流行した疫病がさらに人々の生活を脅かしました。

このように長年にわたり積み重ねられた抑圧と暴力の歴史の中で、アイルランドの民衆は極度の貧困と飢えに苦しみ、イギリスに対する強い恐怖と屈辱を植え付けられることになりました。

そしてその隷属的な構造は、経済的にも政治的にも固定化されていったのです。

こうした悲惨な状況の中で、スウィフトが世に出した『穏健なる提案』は、常識では理解しがたいほどに過激で突飛な内容を含んでいました。

飢えと絶望の中で投げかけられた“解決策”

画像:『穏健なる提案』原書とびら public domain

スウィフトの提案は、読む者に暗い感情を呼び起こさずにはいられない内容であり、その要旨は次のようなものでした。

「毎年12万人もの貧困層の子が生まれている現在のアイルランドにおいて、全ての子を労働適応年齢まで養育するのは極めて困難である。そのために多くの子殺しや堕胎が起きている。この悲惨な状況から子と両親を救済するために、満一歳になった赤子を富裕層の『食糧』として高額で販売することを提案する」

スウィフトによれば、子どもを育ててから売りに出すにも、6歳未満なら畑も耕すことは出来ず、買い手がつくのはせいぜい12歳以降である。しかしこの年齢を超えるまで育てるのは国家の負担でしかない。従って乳離れをする1歳になったところで、食糧にするのが最も効率が良いというのです。

さらに彼は、1歳の子どもであれば体重はおよそ28ポンドに達し、食材としても十分な価値があると述べています。貧困層の親が1人の子を年に2シリングで育て続けるよりも、富裕層が1人あたり10シリングで「購入」することによって、その家庭に経済的利益が還元されると論じたのです。

そして最後には、子どもの「再生産」を継続するために必要な数として、およそ2万人を残しておけば問題はないという見積もりまで示していました。

狂気か?風刺か?

画像 : 夏目漱石 public domain

後に、文豪・夏目漱石はその著書『文学論』の中で、『穏健なる提案』を仮に真面目な政策論として受け取るならば、スウィフトは純然たる狂人であると評しています。

もちろん、漱石はこの提案を風刺として読むべきものであり、そうでなければ到底理解しがたいと述べているのです。

スウィフト自身と『穏健なる提案』の真意は一体どこにあったのでしょうか。

提案の中でスウィフトは、実現に向けた統計や流通の仕組みだけでなく、調理方法に至るまで検討を加えています。そして、単なる狂気では説明がつかないほど緻密に構成されているのです。

スウィフトの提案は、当時の政府や富裕層が貧しい人々に向けていた冷酷な態度を、わざと過激な形で表現することで、その非人道性を浮き彫りにした風刺だと考えられます。

「子どもを売って食べれば貧困が減り、親も救われる」という発想は、あまりにも突飛で常識外れですが、だからこそ読者の良心に強く訴える力があったのです。

スウィフトはこの作品を通じて、上流階級が当然とする搾取の論理を突き詰め、それがいかに非道で暴力的なものであるかを読者に突きつけました。

一見すると狂気のようにも思える提案の中には、鋭利な知性と強い怒りが込められていたのです。

参考文献:『奇書の世界史』歴史を動かす「ヤバい書物」の物語/三崎 律日(著)
文 / 草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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