歴史は、しばしば勝者によって語られます。
しかしその陰には、時代の波に翻弄されながらも、表舞台に立つことなく消えていった者たちも存在します。
19世紀のフランス、そこには王冠に手を伸ばしながら、ついにそれを戴くことのなかった「王になれなかった王」たちがいました。
今回は、1830年の「7月革命」を軸に、彼らが歩んだ運命を辿っていきます。
王政の終焉「7月革命」とシャルル10世の退位

画像:シャルル10世 public domain
1789年、フランス革命が勃発し、長く続いたブルボン朝の絶対王政が崩れ去りました。
その後、激動の中でナポレオン帝政が興り、フランスは再び大きな転換期を迎えます。
しかし1814年、ナポレオンの失脚とともにブルボン朝が再び王座に返り咲き、「復古王政」の時代が始まりました。
まずルイ16世の弟であるルイ18世が即位し、その治世は一定の立憲体制を保ちながら進みます。
その後、兄の死去を受けて、1824年にシャルル10世が第二代の国王となりました。
即位したシャルル10世は王権の強化を目指し、報道の自由を制限し、貴族やカトリック教会の権威を復活させるなど、革命で得た自由を後退させる政策を次々と実行します。
とりわけ、1830年7月25日に出された「7月勅令」は衝撃的な内容でした。
① 議会の解散
② 新聞の検閲強化
③ 選挙権の大幅な縮小
④ 9月下旬の再選挙実施
これらは立憲政治の根幹を揺るがすもので、人々の不満は一気に爆発しました。
この勅令に強く反発した新聞記者、学生、労働者、ブルジョワジーが立ち上がり、7月27日から29日にかけてパリ市内で激しい市街戦が勃発したのです。

画像:1830年の7月革命 市庁舎前の闘争 public domain
新聞記者たちは発行停止命令を無視して紙面を刷り上げ、商店は次々と店を閉じ、人々は広場や大通りに集まりました。
やがて、倒された馬車や家具でバリケードが築かれ、パリの路地は戦場と化しました。
銃声と怒号、そして太鼓の音が街に響き渡り、混乱は瞬く間に拡大していきます。
シャルル10世は軍に鎮圧を命じましたが、戦況は次第に反乱側が優勢となっていきました。
兵士たちは徐々に疲弊し、やがて士気を失っていきます。
最終的にシャルル10世の軍勢はパリを抑えきれなくなり、撤退を余儀なくされました。
そして8月2日、鎮圧の見込みが立たない中で、シャルル10世はついに王位の退位を宣言。
こうして復古王政は幕を閉じ、ブルボン王朝は再びフランスの王座を失ったのです。
たった20分間だけの王?

画像:アングレーム公ルイ・アントワーヌ public domain
退位に際して、シャルル10世は「長男のアンギュレーム公ルイ・アントワーヌに王位を譲る」と宣言しました。
形式上、ルイ・アントワーヌは「ルイ19世」として即位したことになります。
しかし、ルイは国民から極めて不人気で、議会も彼の即位を承認するつもりはありませんでした。
統治権を行使する余地がないと悟ったルイは、ただちに甥のボルドー公アンリを後継者とする方針に同意します。
とはいえ、これも実権を伴う譲位ではなく、王党派内部での名目的な手続きにすぎませんでした。
こうして彼の即位は名ばかりの「象徴的即位」に終わり、後世には「20分間の王」と呼ばれることとなります。
なお、この「20分」という数字は実際に20分だったというわけではなく、ごく短期間で地位を失ったことを象徴した呼び名です。
現在でも、レジティミスト(正統王党派)の一部では、ルイ・アントワーヌを正式なフランス国王「ルイ19世」と見なす見解が残っています。
幻のアンリ5世

画像:ボルドー公アンリ・ダルトワ public domain
こうしてルイ・アントワーヌが事実上王位を放棄した後、シャルル10世の孫であるボルドー公アンリが、王党派によって「アンリ5世」として推戴されました。
しかし、当時のアンリはわずか9歳で、王位継承は形式的な意味合いにとどまっていました。
また、シャルル10世は退位文書の中で、幼いアンリを正式な王位継承者として指名し、同時に政務を補佐させるため、従兄にあたるオルレアン家のルイ・フィリップを摂政に任命していました。
しかし、ルイ・フィリップは議会でこの部分を意図的に読み上げず、自らを国王に推す流れを巧みに作り出したのです。
そして1830年8月7日、代議院はルイ・フィリップを「フランス国民の王」として迎え入れることを決定しました。
これは、神から授かった王権を根拠とする従来の「フランス王」から、国民主権に基づく新しい立憲君主制への転換を意味していました。
こうして「7月王政」が誕生し、ブルボン家直系がフランス王位に復帰する道は、完全に閉ざされたのです。
信念を貫いたアンリ5世

画像:ルイ・フィリップ1世 public domain
ルイ・フィリップの即位により、ブルボン家は再びフランスを離れ、シャルル10世、ルイ・アントワーヌ、アンリはともに亡命生活を送ることになります。
一族は、スコットランドのホリールード宮殿をはじめヨーロッパ各地を転々とし、アンリはレジティミスト(正統王党派)の旗印として担がれ続けました。
1870年、普仏戦争でナポレオン3世の第二帝政が崩壊すると、フランスでは第三共和政が成立。
翌1871年の選挙では、王党派が議会の多数を占め、アンリを国王に迎え入れる構想が具体的に進みました。
議会では、アンリ支持のレジティミストと、ルイ・フィリップ系を支持するオルレアニストが一時的に連携し、1873年にはアンリ即位で合意寸前まで至ります。
しかし最終段階で、アンリはブルボン家の象徴である「白百合の旗」への忠誠を貫き、フランス国民の象徴とされた「三色旗(トリコロール)」の掲揚を拒否したのです。
後に「白百合旗問題」と呼ばれるこの対立によって、王政復古の交渉は決裂します。
このアンリの決断は、王としての信念を貫いた形ではあったものの、現実との折り合いを拒んだことで、ブルボン家がフランス王座に戻る最後の機会を逸したとも言えるでしょう。
絶えた血統、受け継がれた主張

画像:後年のアンリ public domain
アンリ5世は1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領内で子を残さぬまま亡くなり、ブルボン家嫡流としての王位継承はここで途絶えました。
その後、レジティミスト内部では、スペイン・ナポリ系のブルボン=シチリア家や、ブルボン=パルマ家を支持する流れが生まれる一方、オルレアン家を支持する派も現れ、ブルボン直系支持派とオルレアニストの対立は長く続くことになります。
「王になれなかった王」たち、ルイ・アントワーヌやアンリ5世の歩んだ道は、19世紀フランスの激動と葛藤を象徴しています。
彼らは王冠に最も近づきながら、それを手にすることなく歴史の背後へと退いていきました。
しかし、その存在は決して無意味だったわけではありません。
とりわけアンリ5世は、「理念」と「妥協」のはざまで揺れ動いた近代フランスの象徴ともいえる存在であり、今なお多くの示唆を投げかけていると言えるでしょう。
参考文献:
The Fall of the French Monarchy: Louis XVI, Marie Antoinette and the Baron de Breteuil/Munro Price
The Court of France 1789–1830/Philip Mansel
文 / 草の実堂編集部
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