
画像:(画)アドリアーン・ファン・ユトレヒト(1599年-1652年) public domain
かつて欧米を中心に流行した、ポストモーテム・フォトグラフィーをご存知だろうか。
日本語に訳すと「死後写真」あるいは「遺体記念写真」と呼ばれるこれらは、その名のとおり、人が亡くなった後の姿を撮影した写真である。
現代では、遺体を撮影する行為や写真の公開はたびたび物議を醸すが、19世紀の欧米においてはごく一般的な慣習だったという。
中には、遺体をまるで眠っているように見せる「ラストスリープ」と呼ばれる写真が多く撮られたほか、死者を生者のように演出して、遺族と並んで撮影した家族写真まで存在する。
では、なぜ人々は生前の姿ではなく、あえて死後の姿を写真に残し、大切に保管したのだろうか。
現代日本ではあまり馴染みがなく、しばしばサブカルチャー的に語られるポストモーテム・フォトグラフィーだが、この記事では、その背景を歴史的観点から掘り下げていきたい。
なお、この記事では本物のポストモーテム・フォトグラフィーは使用しないので、安心して目を通していただきたい。
ルネサンス期に始まった「死後の姿」を絵に残す慣習

画像:デンマーク王クリスチャン4世の臨終の肖像画、ベレント・ヒルヴァエツ作、1650年 public domain
ポストモーテム・フォトグラフィーは、写真技術が普及し始めた19世紀から盛んになった慣習だが、その背景には、さらに古い「死後肖像画」という伝統がある。
特に15世紀末から16世紀にかけて、裕福な家庭では画家に依頼して、死後の姿を描かせることが一般的だった。
これらの死後肖像画は、遺族が故人を偲び敬うために制作されたものであり、美術品として売買されるものではなく、あくまでも家族の間で大切に保管される性格のものだった。
現代日本でいえば、仏壇に飾る遺影に近い意味合いを持っていたといえるだろう。
こうした慣習が広まった背景には、ルネサンス期以降の宗教観の変化もある。
宗教改革を経た16世紀のヨーロッパでは、特にプロテスタント圏では過剰な虚栄を戒める価値観が強まり、生前の肖像画を避ける人々もいたとされる。
その一方で、愛する人を偲ぶため、あるいは家族の記憶を残すために、死後の姿を肖像画として残すことは信仰的にも肯定的に受け入れられていた。
そのため、信心深い富裕層の人々は、自らの存在証明として、また愛する人を偲ぶために、死後の姿を肖像画として残すことを望んだのである。
一方で、日本では古くから「死」や「死に触れるもの」を穢れとみなし、死後の姿を描くことに抵抗を感じる人が多かった。
家庭に飾る遺影も、生前の元気な姿を写したものが一般的である。
この違いの背景には、ヨーロッパにおいて古代ローマから受け継がれてきた「メメント・モリ(死を忘れるな)」という思想がある。
死を直視し、それを生きる指針とする価値観が、欧米では深く根付いていたのである。
「メメント・モリとは」

画像:『メメント・モリ』古代ローマのモザイク画、ポンペイ出土 public domain
ここで「メメント・モリ」という言葉について簡単に触れておきたい。
「メメント・モリ(memento mori)」とは、ラテン語で「死を忘れるな」という意味を持つ言葉である。
「人は必ず死ぬ存在であることを常に意識せよ」という戒めであり、「限られた生を大切に生きよ」という教えでもあった。
この言葉は、古代ローマで将軍が凱旋式を行う際、集まった観衆からの歓声を浴びている最中に、将軍の後ろに控えた奴隷が「あなたは不死身の神ではなく、いつかは死ぬ人間であるということを忘れてはならない」と、将軍に対して忠告した慣習に由来するといわれる。
時を経て、中世ヨーロッパではペストなどの感染症の流行や百年戦争によって死者が増え、1週間前に元気だったはずの人間が変り果てた姿で死んでいくことが珍しくなくなり、人々にとって「死」がさらに身近なものとなっていった。
「ダンス・マカーブル(死の舞踏)」や骸骨をモチーフとした装飾など、芸術や宗教表現にも盛んに取り入れられ、人々は死を身近に意識するようになった。
ルネサンス期に入ると、メメント・モリは哲学的な価値観として再解釈される。
死後肖像画を描く慣習が広まったのもこの時期であり、故人を偲ぶためだけでなく、残された者たちが「いつか自らも死を迎える存在である」ことを意識し続けるための手段でもあったと考えられる。
写真技術が普及して死後の写真撮影が流行した

画像:1840年にバイエルン州で撮影されたダゲレオタイプ。前列左端の女性はモーツァルトの妻コンスタンツェとされている。 public domain
「メメント・モリ」に基づく死生観は、中世を過ぎた後もヨーロッパの人々の中から消えることはなかった。
だが、死後肖像画の作成を画家に依頼できたのはごく一部の上流階級に限られていたため、中流階級以下の人々の間で流行することはなかった。
しかし1839年に、世界初の実用的な写真技術「ダゲレオタイプ(銀板写真)」が発表されたことにより、高額な費用を画家に払って肖像画を描かせなくても、死者の姿を目に見える形に残せるようになったのだ。

画像:19世紀のスタジオカメラ wiki cc
ポストモーテム・フォトグラフィーが流行した19世紀は、特に幼い子供の死亡率が高かったため、多くの乳幼児の遺体を写した写真が残されている。
写真技術が普及し始めたとはいえ、当時はまだ写真家に撮影を依頼することが多く、撮影に要する時間も長時間に及んだ。
ポストモーテム・フォトグラフィーの被写体になった子供にとって、そのほとんどが人生で最初で最後の写真であったと考えられる。
子どもを亡くした親たちは、我が子に上等な服を着せ、時には花々やレースで飾り、写真家たちは遺体を親に抱かせたり、道具を使ってポーズを取らせたりして、いかに生きているように見せられるかにこだわった。
多くは目を閉じて眠るような「ラストスリープ」形式だったが、まれに目を開かせ、遺族と並んで座らせるなど、生きているかのように演出した家族写真も撮影された。
写真の彩色技術が登場すると、遺体の頬やまぶたに色付けをして、温かみを与える演出も人気を呼んだ。
ポストモーテム・フォトグラフィーに写る故人の多くは苦しみの表情を浮かべてはおらず、グロテスクな雰囲気はほとんどない。
特に幼くして命を落とした子供たちは花々に囲まれて小さな天使のように、安らかな眠りに就いているようにも見える。
早世した子供を着飾らせて撮影する行為は、親がその写真をアルバムに収めて我が子を失った悲しみを慰めるためだけではなく、我が子を神の御許に送り出すための儀式的な意味合いも持っていたという。
ポストモーテム・フォトグラフィーの衰退

画像:pixabay
このように、一般家庭にも普及したポストモーテム・フォトグラフィーだが、1920年頃から衰退し始め、現在では多くの国において、遺体の写真を撮影し公表する行為は不謹慎であると考えられている。
2度の世界大戦で多くの人々が亡くなり、撮影するどころか遺体が戦地から帰って来られなかったり、葬儀や埋葬すら追い付かなくなったことが、ポストモーテム・フォトグラフィー衰退の理由の1つとして考えられている。
大きな戦争が終わった後は、医療や技術の発展により子供の死亡率は下がり、写真を撮影するという行為も特別なことではなくなった。
家族が元気に生きている姿を撮影して思い出に残すことが簡単にできるようになり、さらには人々が「死」の可能性を感じる機会が減ったことで、死後写真を撮る必要性が倫理的に疑問視されるようになった。
現代を生きる私たちにとっては、「死」は日常ではなく異常な事象であり、身近なものではなくなったのだ。

画像:pixabay
しかし一部の研究者は、現代では「死」が日常から遠ざかった結果、人々が生の有限性を意識する機会を失い、かえって生きる意味や喜びを見出しにくくなっていると指摘する。
便利さを追求し、死を避け続ける社会であるからこそ、今こそ「メメント・モリ」の思想に立ち返る必要があるというのだ。
特に日本では、厚生労働省の統計によれば10〜30代の若年層の死因の第1位が自殺であり、社会的にも深刻な課題となっている。
人々の「死」を写し取ったポストモーテム・フォトグラフィーは、「死」を身近に感じにくい現代人にとっては、「生」の尊さを実感させてくれる写真ともいえるのではないだろうか。
参考 :
住倉カオス (著) 『百万人の恐い話 呪霊物件』
Jack Mord (著), Joanna Roche (著), Adam Arenson (著), Joe Smoke (著), Bess Lovejoy (著)
『Beyond the Dark Veil: Post Mortem & Mourning Photography from the Thanatos Archive』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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