
画像:フリードリヒ2世 public domain
18世紀のプロイセン王フリードリヒ2世は、戦場では「軍事芸術の巨匠」と称され、卓越した戦略と指揮でその名を歴史に刻んだ人物です。
国家運営では冷徹な改革者、さらに啓蒙君主として理性を重んじる存在でもありました。
小国プロイセンを列強の一角に押し上げた彼の戦略眼と判断力は、多くの敵や臣下を震え上がらせました。
しかし、王座を離れた彼はまるで別人のようでした。
戦いと政治の緊張の合間に、音楽に心を委ね、詩や哲学に思索を深める静かな時間を好みました。
その内面には、誰も触れることのできない孤独と痛みが潜んでいたのです。
今回は、戦場の英雄として知られるフリードリヒ2世の物語をたどっていきます。
父への恐怖と若き日の試練

画像:フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 彼自身の身長は160㎝程であった public domain
1712年、ベルリンに生まれたフリードリヒは、厳格な父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世のもとで育ちました。
父は「軍人王」と呼ばれ、規律と倹約を何より重んじました。幼いフリードリヒにも軍服を着せ、音楽や文学を「無用の軟弱」として禁じたといいます。
フルートを密かに練習していたことが発覚すると、父は楽器を粉々に破壊し、息子を殴打したとも伝えられています。
宮廷は家庭の温もりとは無縁で、恐怖と沈黙が支配する世界だったのです。
やがて青年となったフリードリヒは、親友ハンス・ヘルマン・フォン・カッテと共に国外脱出を計画します。

画像:親友カッテ public domain
しかし計画は露見し、二人は逮捕されました。
カッテは処刑され、フリードリヒはその最期を自らの目で見るよう強いられたのです。
激しい恐怖と大切な友を救えなかった罪悪感が、若き王子の心を深く抉ったことは想像に難くありません。
その日を境に、フリードリヒは感情を理性で封じ込める術を身につけ、後の「哲人王」としての姿を形づくっていきました。
王位継承と戦争の惨禍

画像:オーストリアの勝利に終わったコリンの戦い public domain
1740年、父の死により28歳で王位を継いだフリードリヒ2世は、即位直後からヨーロッパの勢力図を揺るがす行動に出ました。
神聖ローマ帝国の継承を巡る混乱に乗じ、豊かなシュレージエン地方への侵攻を開始したのです。
しかし戦場には、勝利の栄光よりも死の匂いが満ちていました。
傷ついた兵士、戦死者、逃げ惑う民衆らで戦場は血と涙に染まっていたのです。
フリードリヒ自身も深い虚無を覚え、冷徹に戦略を練る指揮官としての理性の奥底に、絶えず痛みが渦巻いていました。
続く七年戦争では、プロイセンはヨーロッパの主要列強をほとんど敵に回して戦うことになります。
対するのは、宿敵オーストリアを筆頭に、フランス、ロシア、スウェーデン、そしてザクセンといった諸国でした。
周囲を包囲する大国たちに対し、プロイセンは孤立無援の状況で戦い続けたのです。

画像 : クネルスドルフの戦いにおけるフリードリヒ2世 public domain
しかし、1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いで、フリードリヒはロシア・オーストリア連合軍に大敗を喫します。
自ら敵弾の中に身を置き、上着を撃ち抜かれ、乗馬は二頭まで撃ち倒されました。
戦場は混乱の極みに達し、プロイセン軍はほぼ壊滅したのです。
このときフリードリヒは大臣宛の手紙に「これを書いている間にも味方は逃げ続けている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。すべては失われた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」と記しています。
それでも彼は崩壊寸前の軍を立て直し、前線に立ち続けました。
その後も戦いは続き、1760年にはオーストリア軍がベルリンに迫るなど、国は存亡の危機に瀕します。
さらにイギリスからの援助も打ち切られ、フリードリヒは自らの死を覚悟したとも伝えられています。
しかし、運命は彼を見放しませんでした。
1762年、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死し、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒの熱烈な崇拝者だったことで、ロシアは突如として講和に転じます。
続いてスウェーデンも戦線を離脱し、孤立無援だったプロイセンは息を吹き返しました。
翌1763年、フベルトゥスブルク条約が結ばれ、シュレージエンの領有が正式にプロイセンへと認められます。
長く続いた戦火がようやく収まると、フリードリヒは荒廃した国の立て直しに全力を注ぎました。
官僚制度の再整備や農業の復興を進め、芸術と学問の保護にも尽力します。
戦場の指揮官として戦い抜いた彼は、やがて理性と文化を掲げる啓蒙君主へと変貌したのです。
哲学者・ヴォルテールとの友情と断絶

画像:啓蒙主義の代表ともいえるヴォルテール public domain
フリードリヒは若い頃から、フランスの哲学者ヴォルテールと書簡を交わし、理性や自由、啓蒙思想について熱心に語り合っていました。
1750年、ヴォルテールがポツダムを訪れてサンスーシ宮殿に滞在したことで、二人の交流は最高潮に達します。夜ごと哲学書を読み、詩や音楽を楽しむ知的な日々が続きました。
しかし、その友情は永遠ではありませんでした。
ヴォルテールは王の現実的な政治姿勢に失望し、フリードリヒもまた、友の鋭い批評精神に疲れを覚えるようになっていきます。
やがて両者の関係は冷え込み、ヴォルテールはプロイセンを去りました。
それでもフリードリヒは、晩年までヴォルテールとの往復書簡を手元に置き、その日々を時折思い返していたといいます。
また、彼自身も哲学と政治を結びつけた著作を数多く残し、『反マキャヴェリ論』や『七年戦争史』などを通じて、自らの思想と理性を後世に伝えました。
こうした姿勢こそが、彼が「哲人王」と呼ばれるゆえんなのです。
晩年と愛犬たち

画像:サンスーシ宮殿のフリードリヒ2世の墓 wiki c Hannes Grobe
晩年のフリードリヒを慰めたのは、人間ではなく、愛犬のグレイハウンド(しばしばイタリアン・グレーハウンドと紹介される)でした。
病に苦しみ、家族や友人を次々に失うなかで、犬たちは彼にとって唯一の安らぎとなったのです。
1786年8月17日、サンスーシ宮殿で息を引き取る際、フリードリヒは「愛犬たちのそばに葬ってほしい」と願いました。
しかし、そのささやかな願いも当時は叶えられず、彼の遺体はベルリンのガルニゾン教会へと運ばれました。
その後、時を経て再統一されたドイツで、1991年8月17日、彼の棺はようやく遺志どおりサンスーシの丘に戻されました。
愛犬たちの墓が並ぶその場所には、今も「FRIEDRICH DER GROSSE(偉大なフリードリヒ)」と刻まれた石が静かに佇み、主を見守っています。
フリードリヒ2世の生涯は、理性に基づく統治と、抑えきれない孤独との戦いでした。
幼少期の恐怖、友の死、戦場での犠牲、思想家との断絶、そして晩年の孤独…。
栄光の裏に潜む痛みと絶望は、最後まで彼の心から消えることはなかったのです。
参考文献 :
『フリードリヒ大王:祖国と寛容(世界史リブレット人 55)』/屋敷二郎(著)
文 / 草の実堂編集部























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