ナチス・ドイツといえば、ユダヤ人に対する大規模な迫害と虐殺、いわゆる「ホロコースト」がもっともよく知られているでしょう。
ホロコーストとは、ユダヤ人を対象に、国家の意思として組織的に行われた迫害と大量殺戮を指します。
「ユダヤ人である」という理由だけで強制収容所へ送られ、強制労働や非人道的な実験、殺害の対象とされました。
その象徴的な存在が、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所です。
ナチス最大規模の強制収容所として知られ、ここでは膨大な数の人々が命を奪われました。
今回は、アウシュヴィッツ強制収容所がどのような施設であったのか、その実態を見ていきます。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所とは

画像 : 「ARBEIT MACHT FREI(ドイツ語で働けば自由になるの意味)」と記された、第一強制収容所の門のアーチ。Neil CC BY-SA 3.0
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所とは、ナチス・ドイツが運用する絶滅収容所です。
ポーランド南部、オシフィエンチム市(ドイツ名でアウシュヴィッツ)に位置します。
アウシュヴィッツ強制収容所は複合収容施設で、大きく分けて3つの区画に分けられます。
・アウシュヴィッツ
・ビルケナウ
・モノヴィッツ
アウシュヴィッツ強制収容所は1940年5月に開設されました。
稼働開始後、1945年にソ連軍によって解放されるまでの約5年間、周辺地域を含めて段階的に拡張され、収容所運営のために約40平方キロメートルが開発区域として確保されていきます。
同年6月には、ドイツへの抵抗運動に関与したポーランド人政治犯728人が最初の大規模移送として収容され、その多くは兵士や学生でした。
現在では、アウシュヴィッツはナチス・ドイツ最大の強制収容所として知られ、世界遺産にも登録されています。

画像 : 親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラー Bundesarchiv, Bild 183-R99621 / CC-BY-SA 3.0
1941年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻し独ソ戦が始まると、アウシュヴィッツには多数のソ連軍捕虜が送られるようになり、収容所の性格は急速に変化していきます。
開設当初から劣悪だった環境はさらに悪化し、飢餓や寒さによって命を落とす人が相次ぎました。
では、アウシュヴィッツがユダヤ人を大量に収容し、殺害する場へと転じたのは、いつ、どのような経緯によるものだったのでしょうか。
1942年夏、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーはアウシュヴィッツを視察し、拡張された敷地と大量収容が可能な構造に強い関心を示しました。
この時期、ナチス政権はすでにユダヤ人問題の「最終的解決」を実行段階に移しており、ヒムラーの視察は、アウシュヴィッツをその中核拠点として本格的に用いる判断を後押しするものとなります。
こうして大規模なユダヤ人移送が始まり、アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所は、絶滅収容所としての性格を決定的に強めていったのです。
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所の生活

画像 : ハンガリーから到着したユダヤ人。(1944年)Bundesarchiv, Bild 183-N0827-318 / CC-BY-SA 3.0
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に送られたユダヤ人は、ドイツ統治下の各地から列車で移送されてきました。
列車内は極度に混雑し、移動中に十分な食事や水が与えられることはほとんどありませんでした。
到着後、収容者は貨物駅に降ろされ、すぐにSSによる「選別」を受けることになります。
この貨物駅は1944年5月まで使用され、その後はビルケナウ内に設けられた終着点が使われました。
選別では「労働に使えるかどうか」が基準とされ、基準に満たないと判断された人々は、その場でガス室送りとされました。
男性の多くはビルケナウから約3キロ離れたアウシュヴィッツ第一収容所や外部労働施設へ移送され、女性はビルケナウ内の女性収容区に収容されました。
登録された収容者は写真撮影と身体検査を受け、腕に囚人番号の入れ墨を施されます。
私物はすべて没収され、与えられたのは縦縞の囚人服と木靴のみで、男女ともに過酷な強制労働に従事させられました。

画像 : バラック内部。三段ベッドの下は汚物を流す溝。右端は暖房(第二強制収容所) de:Benutzer:Leonce49 CC BY-SA 2.0
収容者は簡素な宿舎に押し込められ、十分な暖房や防寒設備はありませんでした。
室内には粗末な2段ベッドとバケツが置かれるだけで、1つの寝台に5、6人が詰め込まれ、衛生設備も極めて不十分でした。
食事も乏しく、配給されるのは薄いパンと、質の悪い肉や野菜を煮ただけのスープが中心です。
このような生活環境は人間の生存限界を大きく下回るものでした。
ガス室による大量殺戮

画像 : ガス室のあった複合施設(クレマトリウム)の破壊跡 Pimke CC-BY-SA 2.5
アウシュヴィッツと聞いて、ガス室による大量殺害を思い浮かべる人も多いでしょう。
アウシュヴィッツでは、移送の状況に応じて大規模な殺害が行われていました。
ビルケナウの恒久的なガス室と焼却施設が本格的に稼働するのは1943年ごろですが、それ以前から、近隣の農家を改造した臨時のガス室が使用され、1942年初頭にはすでにガス殺が始まっていたことが確認されています。
ビルケナウ内のガス室はシャワー室に偽装され、到着時の選別で労働に適さないと判断された人々は、「消毒」や「入浴」と説明されたうえで中に入れられました。
殺害の規模は日によって異なりましたが、移送が集中した時期には、1日に数千人規模の犠牲者が出たとされています。

画像 : ツィクロンBの缶(アウシュヴィッツ博物館展示)Michael Hanke CC-BY-SA 3.0
このガスの正体は「ツィクロンB」という青酸ガスで、もともと害虫駆除として使われていたものでした。
ガス殺の他にも、害虫やねずみを駆除するためにも利用されました。
そのため、アウシュヴィッツにはツィクロンBのストックが大量にあったと言われています。
解放 〜死の行進
1945年1月中旬、ソ連軍の接近を受け、ナチス・ドイツはアウシュヴィッツからドイツ本国方面の収容所へ、多数の収容者を退去させました。
比較的体力が残っていると判断された人々が、徒歩や列車で移送されたのです。
しかし、収容者の多くはすでに飢餓や衰弱状態にあり、厳しい寒さの中で歩行を続けることができませんでした。
途中で動けなくなった人々は射殺されることも多く、この強制移送は「死の行進」と呼ばれています。
この死の行進を強いられた人数は約60,000〜66,000人とされ、そのうち1万人から1万5,000人ほどが、寒さや飢え、暴力によって命を落としたと推計されています。
そして1945年1月27日、アウシュヴィッツはソ連軍によって解放されました。
アウシュヴィッツには約130万人が移送され、そのうち少なくとも約110万人が殺害されたと推定されています。
終わりに

画像 : 第一強制収容所正門 public domain
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所は、ナチスによる大量殺害が最も集中的に行われた場所でした。
人間が個人として扱われることはなく、到着と同時に生死が選別され、労働力としての価値を失えば即座に排除される仕組みが構築されていました。
大量殺害は突発的な暴力ではなく、行政、輸送、医学、工業が結びついた歪んだ制度として進められていたのです。
少なくとも約110万人が命を奪われたとされるこの場所は、過去の出来事として片付けられるものではありません。
人を人として見なくなったとき、社会がどこまで残酷になり得るのか。その問いを、アウシュヴィッツは今も私たちに突きつけています。
参考 :
芝健介『ホロコースト ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』中央公論新社
『Search the Holocaust Encyclopedia』他
文 / 岩崎由菜 校正 / 草の実堂編集部
























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