クレオパトラは紀元前69年から紀元前30年にかけて、プトレマイオス朝エジプトの女王として君臨しました。
一般的なイメージとは異なり、彼女はギリシア系マケドニア人で純血のギリシア人だったと考えられています。つまりクレオパトラは白人だったのです。
7か国語以上を理解するなど頭脳明晰だったクレオパトラは、ローマのカエサルやアントニウスとの政略結婚を通じてエジプトを守ろうとしました。
科学が発達したエジプト文明をローマ文明に伝える役割も担ったクレオパトラは、東西文明の架け橋的な政治家だったともいえるでしょう。
プトレマイオス朝エジプトが滅亡し、ギリシア系王国は消滅しますが、ギリシアの影響力はローマに深く残り続けます。
今回の記事ではクレオパトラの生涯と、ギリシア文化がローマに与えた影響について見ていきたいと思います。
カエサルの支援によって女王になったクレオパトラ
アレクサンドロス大王の死後、ギリシア世界は分割統治されることになりました。アンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトという3つの王朝です
紀元前3世紀頃から、共和政ローマはギリシア諸都市の征服を開始し、マケドニア、シリアなどのギリシア系王国を次々と滅ぼしていきます。
ローマに対して最後まで独立を保っていたのが、エジプトを治めるプトレマイオス朝でした。
プトレマイオス朝エジプトでは、プトレマイオス12世の死後、その娘・クレオパトラ7世と弟・プトレマイオス13世が共同で即位しました。
しかしクレオパトラはまもなくして、弟によってエジプトから追放されてしまいます。彼女はローマのユリウス・カエサルの支援を取り付け、紀元前47年にエジプトに帰国。プトレマイオス13世を追放して、カエサルのバックアップの下でエジプトの女王として即位したのです。
女王のクレオパトラは政権を安定させるため、ローマの権力者であるカエサル、アントニウスとそれぞれ政略結婚をしました。またエジプトの科学力を背景にローマの支援を取り付け、エジプトの維持に尽力したのです。
科学が発達したエジプトの太陽暦は、1年を365日とする高精度の暦法でした。
ローマはエジプト征服後、この暦法を取り入れて「ユリウス暦」を作成しました。
エジプト暦に4年に1度の閏年を設定するユリウス暦は精度をさらに高め、今日使用されているグレゴリオ暦の基礎が築かれたのです。
悲劇のヒロインとなったクレオパトラ
ローマの独裁者となったカエサルですが、紀元前44年、元老院議員らによって暗殺されます。
カエサルの死後、クレオパトラとアントニウスは後継者争いの内戦に巻き込まれます。紀元前31年の「アクティウムの海戦」で敗北すると、ついにエジプトもローマの支配下に入りました。
翌年(紀元前30年)には、クレオパトラとアントニウスは自殺。プトレマイオス朝は滅亡しました。
ローマ内戦の結果、オクタヴィアヌスがローマの支配者となります。
ギリシア世界の諸王国をすべて滅ぼし、最後にプトレマイオス朝エジプトを併合することで、地中海世界の覇権を握りました。
「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる時代です。
ギリシアの影響はローマに残り続ける
プトレマイオス朝エジプトが滅亡したあとも、ギリシア文化の影響力はローマ社会に根強く残存しました。
ローマの上流階級にとって、ギリシア語とギリシア文化は高度な教養の一部でした。
ローマ神話の神々もギリシア神話のと同一視されるなど、宗教、芸術、建築など文化の多岐にわたってギリシアの影響が色濃く残っていました。
政治的にはローマに支配されたものの、文化面ではむしろギリシアの影響下にあったため「ローマはギリシアに文化的に支配された」と評されるほどでした。
ローマ神話の主神である「ジュピター」は、ギリシア神話の最高神「ゼウス」と本質的に同じ神と見なされていました。
美と愛の女神・ウェヌスはアフロディテと、戦争の神マーズもアレスとそれぞれ同一視されるなど、ローマ神話はギリシア神話の焼き直しと言えるほど、ギリシア文化の影響を強く受けていたのです。
政治的に支配されつつも、文化面ではギリシアに左右されていたローマ文明の二面性がうかがえます。
1世紀頃、ローマ支配下のパレスチナ地方で、キリスト教が誕生します。
聖書である『新約聖書』は、当時の「リングア・フランカ(共通語)」であったギリシア語で記されています。ローマ帝国の公用語がラテン語であった時代においても、ギリシア語による布教が行われました。
東ローマ帝国時代までギリシア語は、地中海世界の共通語として、長いあいだ使用され続けてきたのです。
(参考文献)ゆげ塾ほか(2018)『ゆげ塾の構造がわかる世界史【増補改訂版】』ゆげ塾出版
この記事へのコメントはありません。