ナチス・ドイツは第二次世界大戦中、祖国のために戦い功績を挙げた人物に「騎士鉄十字章」という勲章を授けていた。
その中でも最高位の勲章が「黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄十字章」だ。
黄金柏葉剣ダイヤモンド付騎士鉄十字章は、円卓の騎士やキリストの十二使徒になぞらえて、ドイツが危機に瀕した時に現れる最も勇敢な12人の軍人にのみ授与されると定められていた。
しかしこの最高位の勲章を授かったのは、ドイツ国防軍のべ約1820万人のうち1人しかいなかった。そのたった1人の人物こそが、ハンス=ウルリッヒ・ルーデル大佐だ。
ルーデルは操縦が難しい割に低速で空戦能力が低く、当時あまり人気のなかった急降下爆撃機Ju-87、通称「シュトゥーカ」を乗りこなし、公式記録で戦車519輌、車輛800輌以上、火砲150問以上、その他多数撃破という冗談にしか思えないほど多くの戦果を挙げた。
しかしこれはあくまで公式記録であり、実際の戦果は公式記録をさらに上回るとも言われている。
ソ連最高指導者ヨシフ・スターリンに「ソ連人民最大の敵」と言わしめ、第二次世界大戦において数々の伝説を残したルーデルの生涯に触れていきたい。
ルーデルの生い立ち
ルーデルは1916年7月2日、プロイセン王国東部ニーダーシュレージエンのコンラーツヴァルダウ(現・ポーランド下シレジア県ヤヴォル郡内コンドラトゥフ村)に生まれた。父は地域の教区長を務めた牧師で、他には母と姉2人を含める5人家族の末っ子だった。
スポーツ好きの無垢な少年だったルーデルは、8歳の頃に母から聞いたカーニバルの出し物のパラシュートの話に夢中になる。
母からもらったパラシュートのおもちゃで遊んでいるうちに、自宅の2階から傘を差しながら飛び降りてみるほど空を飛ぶことに憧れた。ルーデルはこの時からパイロットになる夢を抱くようになった。
成長してギムナジウムを卒業したルーデルは、20歳の時に合格率1%の難関を乗り越えてドイツ空軍学校に士官候補生として入学する。
当初は花形の戦闘機乗りを希望していたが「卒業生は爆撃隊に編入される」という噂を聞き、さらにヘルマン・ゲーリングのシュトゥーカ爆撃隊新編成の演説を信じこんで自ら爆撃隊に志願する。
しかし実際はルーデルが信じた噂は真っ赤な嘘で、ルーデル以外の卒業生のほとんどは希望通りに戦闘機部隊に配属されたという。
ルーデルが一人前のシュトゥーカ乗りになるまで
軍人デビューを果たしたルーデルは、22歳を目前として第168急降下爆撃航空団第I飛行隊に配属されるが、その後まもなく第121長距離偵察飛行隊に転属となる。
希望とは異なる偵察隊への異動は、「第168部隊の中隊長が自分を厄介払いするためだった」とルーデル自身が自伝で述べている。
悔しさを胸に偵察隊の任務をこなし、二級鉄十字章を受章したルーデルだったが、フランス侵攻が終わる頃にようやく第3急降下爆撃航空団第I飛行大隊への転属を果たした。
しかし転属してしばらくは技量未熟と判断され、すぐに戦闘に参加することはできず、ルーデルは爆撃隊が出撃するたびに悔しさに涙を流したという。
訓練を積み、ルーデルがいっぱしのシュトゥーカ乗りとして戦闘に参加できたのは、1941年6月23日、24歳の頃だった。
そこから終戦までの約4年間で、ルーデルは2500回以上出撃し、高額な懸賞金をかけられて30回も撃墜されながら、片足を失う大怪我をしても出撃を辞さず、次々と快進撃を繰り広げていったのだ。
ルーデルが残した伝説
ルーデルにまつわる逸話や挙げた戦果は数えきれないほど多いので、ここでは彼の人間離れっぷりが感じられるエピソードの一部を、箇条書きで記述していく。
・ソ連の巨大戦艦マラートを急降下爆撃で撃破。
・敵地で不時着してから自国の陣地へ帰還後に上官から入院を命じられるが、無視して満身創痍の状態で出撃。敵機甲部隊を爆撃で殲滅し、敵戦車26輌を撃破。
・敵の高射砲の攻撃を受け負傷し入院するも、約6週間の入院期間を無視して1週間ほどで無理矢理退院。
・ルーデルのために新たに作られた黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章を受賞する際、ヒトラーに対して「総統、もし私が飛行大隊と行動を共にするのが許されないのでしたら、私は受賞と昇進とを辞退申し上げたいと存じます」と言い放つ。
・対空砲の攻撃で右脚を吹き飛ばされるが、後部機銃手で4人目の相棒であるエルンスト・ガーデルマンに叱咤激励されながら操縦を続けて生還。
・右脚を失って入院中、「もうスキーも高飛びも出来ないが、脚が片方残っているからどうでもいい。ただ一つ大事なことは、この現在の危急存亡の時に際して、私が少なくとも数週間飛べないということだ」と嘆く。
・上層部から出撃を禁止されていたものの、書類を偽装して出撃。しかし誰が撃破したかわからないソ連戦車が急増してばれる。
数多くの逸話と戦果を残したルーデルは、ヒトラーからも全幅の信頼を置かれていた。ルーデルもまた総統という立場にありながら自分の意見にしっかりと耳を傾けてくれるヒトラーに対し、感銘を受け敬愛していたという。
そのヒトラーがベルリンの地下で自決し、ドイツが無条件降伏したことを知ったルーデルは、ドイツ敗戦にしんみりしながらも道中出会ったソ連戦闘機を前日までと同じように撃墜しつつ、アメリカ軍に投降した。
戦後のルーデル
戦後にルーデルは一時拘留されたが、戦争犯罪に該当する行動がなかったため、1946年4月の軍人病院退院をもって釈放となる。
ドイツ軍解体により軍人としての職を失ったルーデルは、輸送関係の仕事を経てアルゼンチン政府の招待によりアルゼンチン航空機産業の顧問に任命され、コルドバの航空技術研究所に勤めた。
アルゼンチンの独裁者ペロンや、パラグアイの独裁者ストロエスネルと親友となったルーデルは2人の仲を取り持ち、両国の経済開発計画にも関与しながら、アルゼンチン空軍の教官としても航空戦闘技法を幹部候補生に教え込んだ。
そしてアルゼンチンでルーデルはナチス戦犯救済のための組織を設立し、生き残っていたかつての戦友や上官たちを物資や金銭で支援した。
アルゼンチンでは実業家として活躍する傍ら、義足を履きながらスキーやテニスなどのスポーツを愛好し、登山も嗜んでアコンカグア登頂も果たしている。
1953年にはアルゼンチンから西ドイツに帰国し政治活動家となった後、オーストリアに移り住み、49歳の時に28歳年下の女性と2度目の結婚をして息子を授かった。ちなみにルーデルは生涯で3回結婚している。
そして1982年12月18日、脳内出血にて66歳でこの世を去った。ルーデルの葬儀にはナチスを崇敬し続ける多くの人々が押しかけ、騒然となったという。
ルーデルの遺体はドイツのドルンハウゼンのどこかに埋葬されたが、その墓地の正確な場所は公表されていない。
しかしルーデルの存在が忘れられることはなく、戦後70年以上が経った今も、ルーデルの人間離れした伝説は語り継がれている。
参考文献
ハンス・ウルリッヒ ルデル (著) 高木 真太郎 (翻訳)『急降下爆撃』
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