西洋史

【フランス革命の美貌の女闘士】 テロワーニュの栄光と悲劇 「時代の寵児が裸の屈辱に」

テロワーニュの栄光と悲劇

画像:テロワーニュ・ド・メリクール (カルナヴァレ博物館蔵) public domain

フランス革命の前期、革命のシンボルとして扱われ「自由のアマゾンヌ」と呼ばれた一人の女性をご存じでしょうか。

彼女の名はテロワーニュ・ド・メリクール

華やかな社交界に出入りをしていた彼女は、娼婦出身の男装の美女として世間の耳目を集め、一時は時代の寵児としてその名を馳せます。

しかし、先駆者として生きた彼女の人生の末路は、あまりにも悲しく過酷なものでした。

今回は、そんなテロワーニュの足跡を辿ってみましょう。

裕福な愛人たちが次々と身を滅ぼす「高級娼婦」に

テロワーニュの栄光と悲劇

画像:テロワーニュを描いた象牙製のミニアチュール(18世紀) public domain

テロワーニュこと出生名アンヌ・ジョゼフ・テルヴァニュは、1762年にベルギーの裕福な地主の娘として生まれました。修道院で教育を受けた後、実家に戻りましたが、継母との折り合いが悪く、17歳頃までには何度か家出を繰り返していました。

生まれついた美貌と優れた歌声を持っていた彼女は、ある時イギリス人のコルバート夫人の目に留まり、歌の勉強のためロンドンに渡ります。しかし、ロンドンで恋人を作ったアンヌはコルバート夫人の元を出奔し、その後次々と裕福な愛人や貴族たちを相手に客を取るようになります。

アンヌに貢ぎ続けた資産家たちは、宝石、邸宅、召使い、馬車を提供し、彼女のために多くの者が破産に追い込まれました。こうしてアンヌは社交界に出入りする高級娼婦として知られるようになったのです。

自由な精神と革命に身を投じる

テロワーニュの栄光と悲劇

画像 : ルソー public domain

そんな彼女はナポリ滞在中、フランスで課税を巡って三つの身分の代表者が議論する三部会が招集されたことを知り、時代が革新の方向へ大きく動き始めたことに大いに興奮しました。

多情なアンヌは、自分を崇拝する男性たちを破産させる一方で、ルソーをはじめとする自由思想家たちの著作を読み、新しい思想に対して開かれた精神を持つ自由な女性でもあったのです。

革新の空気の中で、自らも時代の変化に役立ちたいと考えた彼女は、「テロワーニュ・ド・メリクール」という新しい名を自ら名乗り、優雅な愛人生活を捨て、パリでの革命運動に身を投じることを決意しました。

娼婦からフランス革命のアイコンへ

画像:男装のテロワーニュ(1792年) public domain

テロワーニュは愛人生活で蓄えた私財を使い、パリに邸宅を構えます。そこにはフランス革命初期の指導者であるミラボーやダントンなど、革命史に名を残す人物たちが集まりました。

テロワーニュは、人民結社コルドリエ・クラブや議会で力強い演説を行い、女性の権利を訴えました。世間は彼女を「美貌の女闘士」「革命のアマゾネス」と称賛しました。

実際に革命に揺らぐ当時のフランスであっても、いまだ女性は「男性に愛されその役に立つこと」が義務であり、その権利や地位は放置されたままだったのです。それは男性を中心とした進歩的で革命的な思想家たちでも同じでした。

そのような状況の中で、テロワーニュは必死に女性の地位向上を訴えましたが、対立する王党派ジャーナリズムは彼女の出自や過去を猥雑に書き立て、容赦なく攻撃しました。そのためテロワーニュは身の危険を感じ、故郷のベルギーに身を隠すことになります。

しかし、ベルギーにはフランスからの亡命貴族が多く滞在していました。彼女の存在に気づいた貴族たちは、官憲に通報し、テロワーニュは「マリー・アントワネットに危害を加えようとした」という言いがかり同然の罪で監禁され、オーストリアのウィーンに護送されたのです。

この有名な女性活動家の動向は、オーストリア皇帝レオポルド二世の耳にも入りました。そして興味を抱いた皇帝との謁見の後、テロワーニュは無罪となり、無事にパリに帰還しました。

こうした数奇な武勇伝を携えたテロワーニュは、一部のパリ市民から熱狂的に歓迎されました。

画像 : テュイルリー宮殿襲撃(8月10日事件) public domain

そして1792年8月10日、パリ市民によるテュイルリー宮殿への襲撃事件が起こります。(※8月10日事件)

テロワーニュは、逮捕された王党派ジャーナリストの中に、自分を侮辱し罵倒した記事を書いた記者シュローを見つけました。

怒りに駆られた彼女がシュローに掴みかかると、彼女を支持する群衆は興奮し、シュローを剣で殺害し、その首を槍に刺して振り回しました。

衆人監視の中での「裸の屈辱」

画像:ジャック・ピエール・ブリッソー public domain

しかし、この頃からテロワーニュは熱狂的な過激派とは距離を置くようになり、次第に右派であるジロンド党に接近するようになりました。

そんな中、彼女を完全に打ちのめす事件が起こります。

1793年5月31日、テロワーニュはジロンド派議員ブリッソーを擁護するために群衆に向けて演説を行いました。その後、テュイルリー庭園を歩いていると、一群の女性たちに取り囲まれたのです。

彼女たちは「編み物女たち」と呼ばれる、反ジロンド派に同調する市中の女性たちでした。

テロワーニュは彼女たちと揉み合いになり、衣服を引き裂かれスカートを捲り上げられ、公衆の面前で尻を激しく打たれました。その屈辱と悔しさは想像を絶するものだったに違いありません。

彼女はすさまじい叫び声を上げて抵抗しましたが、解放された時には、完全に正気を失っていました。

独房での最期

テロワーニュの栄光と悲劇

画像:1816年のテロワーニュ public domain

かつては革命の寵児として持て囃されたテロワーニュでしたが、この事件をきっかけに精神に変調をきたすようになりました。

奇行を繰り返した後、1794年以降は精神病院や施設を転々とし、1807年には貧民等を拘束するための悪名高いサルペトリエール監獄の施設へと移されました。そして、1817年6月9日に息を引き取るまで、そこに収容されたままでした。

狭い独房で過ごすテロワーニュは、真冬でも一糸纏わぬ状態で凍りついた水を頭からかぶったり、「自由」という言葉と王党派を呪う言葉を繰り返す以外は、何もできない状態であったといいます。また、娼婦時代に感染していた梅毒に身体が蝕まれていたという説もあります。

奔放な女性としての人生を謳歌し、革新という時代の変化にいち早く反応した先駆者であったテロワーニュは、最終的に惨苦と狂気の中で生涯を閉じました。

しかし、その唯一無二の足跡は、革命の嵐の中でフランスに生きた歴史の一部として深く刻み付けられています。

参考文献 : フランス革命の女たち (とんぼの本) 新潮社 池田 理代子 (著)

 

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草の実堂編集部

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草の実学習塾、滝田吉一先生の弟子。
編集、校正、ライティングでは古代中国史専門。『史記』『戦国策』『正史三国志』『漢書』『資治通鑑』など古代中国の史料をもとに史実に沿った記事を執筆。

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