約400年前、ローマ屈指の名門貴族の令嬢が斬首の刑に処されました。
彼女の名はベアトリーチェ・チェンチ。
名家に生を受けたにも関わらず、わずか22年の生涯を閉じるまで、彼女が味わった惨苦はあまりにも辛く、理不尽なものでした。
なぜベアトリーチェは斬首に至るほどの罪を犯したのか、今回はその足跡を辿ります。
身の毛もよだつ父親からの虐待
ベアトリーチェの父でありチェンチ家の当主であったフランチェスコ・チェンチは、ローマの有力な貴族でした。
1562年に父親が亡くなると、彼は莫大な遺産を相続し、ベアトリーチェを含む5人の家族と共に広大なチェンチ宮で暮らしていました。
1584年、ベアトリーチェが7歳の時に実母エルシアが亡くなると、彼女は姉のアントニーナと共に修道院に預けられます。
そこでの生活は平穏でしたが、ベアトリーチェが15歳の時、父フランチェスコは子女の教育費を惜しんで姉妹を自宅に呼び戻しました。
しかし、フランチェスコは冷酷な男でした。当時死罪に値する罪であったにも関わらず、女性とみれば見境なく暴力を使って手込めにし、時にその相手は異性に限りませんでした。
彼は暴力沙汰を頻繁に起こし、さらには死傷事件まで引き起こしましたが、有力貴族としての地位を利用し、賠償金を支払って恩赦を得ることですぐに釈放されました。
フランチェスコの暴力は家庭内でも容赦なく振るわれました。特に美しく成長したベアトリーチェは、他の男性が近づかないように屋敷の中で半ば軟禁され、精神的にも肉体的にも追い詰めらたのです。
そして決定的な悲劇が起こりました。まだ15歳になったばかりの実の娘ベアトリーチェを、フランスチェスコは欲望のはけ口にしたのです。その後も彼女に対する性的暴行は、日々繰り返されました。
止むことのない父親からの虐待に耐えかねたベアトリーチェは、ついに当局に訴え出ます。しかし警察は、フランチェスコが有力貴族であることを理由に彼女の訴えを受け入れませんでした。ローマ市民の誰もがフランチェスコの本性を知っていたにも関わらずです。
それどころか、ベアトリーチェの告発を知ったフランチェスコは激怒し、ローマ近郊にある城に彼女をはじめとする家族を幽閉してしまいました。
家族を幽閉したフランチェスコの暴力は凄まじいものでした。後妻ルクレツィアや、兄や弟も失神するほど激しく殴られたのです。
そして、ベアトリーチェは手足をベッドに縛り付けられ、フランチェスコから繰り返し虐待を受け続けました。
哀しき凶行
フランチェスコに対する家族の我慢は、とうに限界を越えていました。特にベアトリーチェが父に抱いた怒りは筆舌に尽くし難いものでした。彼女は女性としての幸福を奪われ、自由も逃げ場もない日々を送っていたのです。
そして、この絶望的な状況の中で、ついにベアトリーチェは父親殺害という凶行を思いつきます。
そんな彼女に同情する人物がいました。オリンピオ・カルベッティです。
城の執事でありチェンチ家の事情を知る彼は、耐え続けるベアトリーチェに想いを寄せていたのです。
こうしてベアトリーチェとオリンピオ、同じく暴力を受け続けていた義母ルクレツィア、父の遺産で多額の借金を返済しようと考えていた兄ジャコモ、さらに元御者のマルツィオも計画に引き込まれ、フランチェスコの殺害が企てられました。
1598年9月のある夜、ベアトリーチェはフランチェスコのワインに密かに阿片を盛りました。
フランチェスコが昏睡状態になると、オリンピオとマルツィオが襲い掛かり、ベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモも加わりました。こうしてフランチェスコは殺害されたのです。
遺体は事故に見せかけるため、床を剥がしたバルコニーから突き落とされました。血のついた布は証拠隠滅のために小さく裂かれ、便所に捨てられました。
そして、「フランチェスコが誤ってバルコニーから転落した!」と助けを呼んだのです。
しかし、駆け付けた人々がフランチェスコの遺体を確認すると、不審な点がいくつも見つかりました。
こめかみ付近には斧でできたような深い傷があり、他の傷も深く大きなものばかりでした。これらの傷は転落した際に茂みの枯れ枝でできるようなものではなかったのです。
さらに、オリンピオが遺体の埋葬を神父に急がせたため、世間の疑惑と噂が広まりました。
結局、当局による検死と検分の結果、殺人が断定され、ベアトリーチェたちは逮捕されたのです。
拷問の末に
逮捕されたベアトリーチェたちを待ち受けていたのは、裸にされ後ろ手に縛られて滑車に吊るされるという、取り調べという名の拷問でした。この拷問に耐えかねたベアトリーチェは、ついに父の殺害を自白してしまいます。
そして、ベアトリーチェたちに下されたのは死刑の判決でした。
この判決を知った市民たちは、同情のあまり無数の陳情を教皇クレメンス8世に寄せましたが、判決が覆されることはありませんでした。一説によると、教皇はチェンチ一族を根絶し、その莫大な資産を手に入れる狙いがあったとされています。
1599年9月11日、ベアトリーチェは見せしめとして衆人監視の中で斬首され、その短い生涯は悲劇のうちに幕を下ろしました。
実父からの暴虐に晒され続け、教皇の治世下でも救いを得られず、拷問の末に処刑されたベアトリーチェの運命はあまりにも過酷でした。
彼女の悲劇は、理不尽な権力に抗った勇気ある女性として、今なお多くの人々の心に刻まれています。
参考文献:
『世界悪女大全』桐生操(著)
『世界史を彩った美女悪女51人の真実』副田護(著)
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