1939年、ヒトラー率いるナチス・ドイツはポーランドに侵攻し、その翌年にはデンマークとノルウェーへの侵攻を開始した。
ナチスは迅速に首都コペンハーゲンを占領し、デンマーク政府はドイツ軍の進軍からわずか6時間で降伏した。
しかしデンマークには、祖国への誇りを捨てずナチスに立ち向かった少年たちがいたのだ。
怒れる少年クヌーズ・ピーダスン
1940年、デンマークのオーゼンセに住む14歳の少年、クヌーズ・ピーダスンは憤怒していた。
彼の怒りの理由は、祖国を占領したナチスと、そのナチスに対して弱腰な態度をとるデンマーク政府およびデンマーク人の大人たちであった。
ドイツ軍に攻め込まれたデンマークは、ドイツ軍の条件を呑んですぐに降伏したが、ノルウェーはナチスに屈せず、大量の犠牲者を出しながら必死に戦う姿勢を見せた。
この事実を知ったクヌーズは、ノルウェー人の勇気に胸を躍らせると同時に、ヒトラーに屈したデンマーク人を恥ずかしく思った。ドイツ軍に贔屓されて金銭的に潤う者も多く、クヌーズは祖国を占領されてまで商売を優先させる大人たちに辟易していた。
彼は年子の兄であるイェンスと共に仲間を集め、ドイツ軍に反撃することを誓った。自分たちが先頭に立って戦うことで、全デンマーク人の目を覚まさせようとしたのである。
RAFクラブ
クヌーズら少年たちは、自身のレジスタンスグループを「RAFクラブ」と名付けた。
これは、イギリス空軍のRAF(Royal Air Force)に由来している。
1940年7月から10月にかけて繰り広げられたバトル・オブ・ブリテンでは、イギリス空軍のパイロットたちは数ではドイツ空軍に圧倒されていたが、見事イギリスの空を守り抜いた。
クヌーズら少年たちは、このヒーローたちに憧れ、まず自分たちにできることを考えた。
まだ中学生だった彼らは武器も持っていなければ、訓練もしていない。そこで目を付けたのが、街のあちこちに新しく立てられた道路標識だった。
新しくデンマークにやってくるドイツ軍兵士たちに、兵舎や司令部のある場所を教えるための矢印が描かれた標識を、自転車に乗ってぶつかって倒したり、矢印の向きを変えたりしたのである。
クヌーズ率いるRAFクラブは放課後に毎日道路標識をいたずらし、さらにドイツ軍兵舎の電話線を切断するなど、レジスタンス活動を行った。
1940年秋、彼らのイタズラが街中で噂になり、ドイツ軍はデンマーク警察に犯人を捕まえるよう警告した。
これに危機を感じたオーゼンセ警察本部長は、オーゼンセ新聞に「犯人逮捕につながる情報提供をした者は、300クローネ(当時の工場労働者の3か月分の給料)を支払う」という広告を出した。
これは、懸賞金をかけられた犯罪者になったということだが、クヌーズたちは喜んだ。
間違いなく、RAFクラブは市民の注意を引くことに成功したのだ。
チャーチルクラブ
1941年春、プロテスタント教会の牧師であった父親が別の教会に異動となり、イェンスとクヌーズの兄弟は一家でオルボーという港町に引っ越した。
兄弟はオルボーでもレジスタンス活動を続ける機会を窺っていた。まずは転校先の新しい学校で友達を作り、信頼できる仲間にRAFクラブの話をしてレジスタンスに誘った。その結果、仲間は8人に増えた。
集まった仲間には、「教授」というあだ名のついた物理の天才と呼ばれる少年、ユダヤ系デンマーク人の少年、そして最年少ながらも肝の据わった14歳の少年などがいた。
クヌーズらは、この新しいレジスタンスグループを「チャーチルクラブ」と名付けた。
これは、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルに由来している。
クヌーズ率いるチャーチルクラブは、引き続き道路標識の向きを変える活動から始めた。
日が経つにつれて、ドイツ軍に占領されたオルボー空港の事務所内にある書類やヒトラーの写真を燃やす、ドイツ軍兵士の隙を見て武器を盗む、ドイツ軍の車を破壊する、武器を積んだ列車を爆破するなど、彼らの活動は次第に大胆になっていった。
こうした活動は基本的に日中に行われた。なぜなら彼らには門限があったからである。夜中に活動せざるを得ない任務の際は、「仲間たちで集まってトランプをしている」と親に伝えていた。
クヌーズの両親は、彼らがレジスタンス活動を行っていることに全く気づいていなかったという。
任務は常に危険と隣り合わせであったが、少年たちはレジスタンスに没頭し、約1年間ほぼ毎日活動を続けたのである。
チャーチルクラブメンバーの逮捕
1942年5月、大胆になっていたチャーチルクラブの活動が止まることになる。
ドイツ軍兵士が贔屓にしているカフェのクロークルームで、将校のピストルを盗んだことがウエイトレスにバレてしまったのである。
クヌーズらチャーチルクラブのメンバーや協力者は逮捕され、裁判にかけられた。当初、ドイツとデンマークのどちらの法律に従って裁くかが問題となったが、最終的にはデンマークが処理を担うことになった。
チャーチルクラブの少年たちは、最年少である14歳のバアウを除いて全員が実刑判決を受け、ハンス王子通り拘置所に拘留された。
ニュボー国立刑務所に収監されることが決まっていたが、移送の日は不明であった。
彼らは早く外に出て再びレジスタンス活動を行いたいと強く願っていた。「自分たちがやらなければ、デンマークはナチスの犬のままだ。デンマーク人たちを目覚めさせなければ!」と決意を新たにしていた。
兄弟揃って同じ房に入っていたイェンスとクヌーズは、拘置所からの脱走を二度試みたが、どちらも失敗に終わった。結局、ニュボー国立刑務所に送られ、全員刑期を全うして出所している。クヌーズとイェンスが出所したのは1944年5月のことであった。
家に帰ると、父の務める教会兼自宅である修道院が、なんとレジスタンスの本拠地になっていた。
チャーチルクラブのメンバーたちが逮捕された当時、ドイツの圧制に抵抗する者はほとんどいなかった。ところが、チャーチルクラブの逮捕が世間に知れ渡ったことを皮切りに、いまやレジスタンスは大きな盛り上がりを見せていたのだ。
ドイツの降伏
イェンスはその後、大学進学を目指して勉強に勤しんだ。
クヌーズは、イギリスの秘密組織の協力を得て活動する本格的なレジスタンスグループに加わった。クヌーズが率いる部隊の主な任務は、武器、弾薬、爆発物を秘密の隠し場所から別の場所へ移動させ、ドイツ軍に見つからないようにすることであった。
1945年5月8日の晩、クヌーズが外の通りにいたとき、ある建物の窓から流れ出るラジオの大きな音がドイツの降伏を知らせた。デンマーク人はあらゆる場所で通りに出て、笑い、泣き、踊り、歌った。
5年に及ぶドイツの占領が終わり、デンマークは誇りを取り戻したのである。
クヌーズは終戦後、しばらく新聞記者として働いたという。その後、ロースクールに入学し、映画会社に勤務し、最後は美術の世界に生涯を捧げた。結婚もし、子供や孫にも恵まれ、2014年にこの世を去った。
彼はデンマークの国民的な英雄として、コペンハーゲンのアシステンス墓地に埋葬された。
この墓地には、アンデルセンやキルケゴールなど、デンマークを代表する人物も埋葬されている。
おわりに
ナチスに立ち向かったチャーチルクラブの少年たちの勇気ある行動は、間違いなく当時のデンマーク人を奮い立たせただろう。
無鉄砲に見えた彼らの物語は、強い意志と心を持つことの大切さを教えてくれるものである。
参考文献
「ナチスに挑戦した少年たち」フィリップ・フーズ
文 / 小森涼子
この記事へのコメントはありません。