19世紀、巧みな外交手腕と美貌でフランス皇帝ナポレオン三世を抱きこみ、のちのイタリア統一へ多大な影響を与えた女性、カスティリオーネ伯爵夫人をご存じでしょうか。
彼女はその美しさと個性的なファッションセンスで、フランス第二帝政期の社交界で一躍注目を集めました。
しかし、それだけではなく、彼女が政治に与えた影響力はイタリアとフランスの歴史を変えたと言っても過言ではありません。
カスティリオーネ伯爵夫人とは、一体どのような人物だったのでしょうか。
「至宝」と呼ばれた美貌と知性
カスティリオーネ伯爵夫人ことヴィルジニア・オルドイーニは、1837年、トスカーナ大公国のフィレンツェで貴族の家に生まれました。
16歳でカスティリオーネ伯爵と結婚し、サルディーニャ王国の都トリノの宮廷で社交界デビューを果たします。
彼女の美しさは宮廷中の話題となり、「神々しい伯爵夫人」と称されるまでになりました。
自身もその美貌を自覚しており、一男ジョルジォをもうけた後も穏やかな家庭生活におさまる気はなく、どこかで華々しい冒険に乗り出すことを夢見ていたと言います。
そんな彼女に目をつけたのが、サルディーニャ王国の宰相カミッロ・カヴールでした。
カヴールは伯爵夫人の従兄であり、フランスとの外交政策を有利に進めるために彼女を利用しようと考えました。
そこで、持って生まれた美貌とその知性で「イタリアの至宝」とまで評されていた伯爵夫人を、外交使節としてフランスに送りこむ事を思いついたのです。
密命を帯び、パリへ
1855年、カスティリオーネ伯爵夫人はフランスに渡り、ナポレオン三世の宮廷に接近する任務を帯びてパリに赴きました。
彼女の目的は、ナポレオン三世の政治的判断に影響を与えることであり、いわばスパイです。
そして首尾よく、宮廷のあるテュイルリー宮殿近くに居を構えました。
夫人の「至宝」としての評判は、到着前からパリ中の話題でした。彼女が身を落ち着けるやいなや、数々の招待状が舞い込みます。
そんな折、テュイルリー宮殿で公式の舞踏会が開かれる事になりました。
この舞踏会での彼女の動きは、計算されたものでした。
既にダンスが始まっている最中、夫人が少し遅れて舞踏会場に姿を現すと、そこにいた人々は一斉に彼女の方を振り返り、会場全体が夫人を賛嘆する空気に包まれました。
その中で、ナポレオン三世は夫人に歩み寄り、自らの腕を差し出してダンスの相手に選んだのです。
この瞬間、カスティリオーネ伯爵夫人は舞踏会の中心人物となり、パリ社交界へのデビューは大成功を収めました。
オーケストラが再び優雅なワルツを奏で始め、夫人の存在感は一層際立ちました。
皇后を尻目に皇帝攻略
こうして瞬く間にナポレオン三世を惹きつけたカスティリオーネ伯爵夫人が、「愛人」として皇帝を抱きこむのに時間はかかりませんでした。
しかし、彼女の野心はそれにとどまりませんでした。正妻である皇后ウージェニーに対しても一切臆することなく接したのです。
皇后が正統派な装いを好んだのに対し、夫人は斬新かつ奇抜な服を身に着け、時には「私の方が皇后としてふさわしい」と示唆するような言動すら見られました。
さらに彼女がナポレオン三世を魅了したのは、女性としての魅力だけではありませんでした。
伯爵夫人は知性に優れ、母国語のイタリア語に加え、フランス語、ドイツ語、英語を流暢に操り、国際政治や外交にも関心が高い彼女のサロンには、ヨーロッパ各国の王侯貴族たちがこぞって訪れていたのです。
そして、この華やかな社交界の裏側で、彼女は「カヴールから託された密命」を果たす機会を常に窺っていたのです。
ついにフランスを動かす
当時のイタリアは多くの小国が分立し、それぞれが対立を繰り返していました。
そして、こうした紛争状態を解決するための国際会議が、当事者であるイタリアを抜きにしてパリで開かれようとしていたのです。
パリで開催予定のこの会議は、イタリア統一を目指す者たちにとって、大きな障害となる可能性がありました。
そこでカスティリオーネ伯爵夫人は、ナポレオン三世に巧みに働きかけ、カヴールがこの重要なパリ会議に参加できるように促したのです。
この策謀は見事に成功し、カヴールはパリ会議への参加を果たすだけでなく、フランスからのサルディーニャ王国への支援を引き出すことにも成功しました。
フランスの皇帝が、愛人・カスティリオーネ伯爵夫人の意のままに動いたのです。
こうしてフランスはサルディーニャ王国の同盟国となり、後にイタリア統一はサルディーニャ王国の主導によって実現されました。
表裏一体の政治と恋
1859年、夫人はナポレオン三世と喧嘩別れをして、一度イタリアに帰国しました。
しかし、1862年には再び皇帝と和解し、パリに戻ってサロンを再開します。彼女のサロンには、以前と変わらず多くの王侯貴族や政治家たちが訪れ、その影響力は健在でした。
また、カスティリオーネ伯爵夫人は、恋多き女性としても知られています。
彼女が関係を持った相手の中には、サルディーニャ王国の最後の王であり、イタリア王国の初代国王エマヌエーレ二世や、フランス銀行総裁から一時期は首相を務めたラフィットなど、名だたる人物たちが含まれていました。
1870年から1871年にかけての普仏戦争の際には、ナポレオン三世からの依頼でプロイセン首相ビスマルクと会見し、パリの占拠を思いとどまるよう説得を試みました。その影響もあったのか、パリは辛うじて占拠を免れました。
その後、ナポレオン三世の退位とともに、カスティリオーネ伯爵夫人は徐々に表舞台から姿を消します。
晩年は、その美貌の衰えを黒いベールで隠すようにして過ごし、1899年、パリで静かにこの世を去りました。
「歴史の影に女あり」とはよく言ったものです。
もし彼女の暗躍がなければ、ヨーロッパ、さらには世界の地図が今とは異なっていたかもしれません。
参考文献:『ヨーロッパ三都物語 ローマ・パリ・ウィーン歴史秘話』新人物往来社
文 / 草の実堂編集部
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