『水の国』を意味するという説もある『アクィタニア』を語源とする、フランス南西部のアキテーヌ地方。
この地にはかつて、イベリア半島から北上してくるイスラム勢力を抑えるため建国され、後にフランク王国の公国の一つとなったアキテーヌ公国がありました。
1137年、ここを治めていたポワトー伯ギヨーム10世が亡くなり、残されたのは一人娘のアリエノール・ダキテーヌでした。
ここからの彼女の人生が、中世ヨーロッパの歴史を大きく動かすことになるのです。
15歳にしてフランス全土の1/3を継承
アリエノールは、ポワトー伯ギヨーム10世を父に、祖父ギヨーム9世の愛人の娘であるアエノール・ド・シャテルローを母として、1122年にアキテーヌで生まれました。
当時のアキテーヌは、トルバドールと呼ばれる吟遊詩人たちが集まる中世フランス文化の中心地でした。アリエノールは、自由な雰囲気の中で両親の奔放な性格を受け継ぎながらも、教養豊かな女性へと成長していきます。
しかし、彼女が置かれた環境には複雑な側面もありました。当時のヨーロッパは封建制度のもとにあり、カペー朝フランス王家が形式上の最高権威とされていたものの、実際にはアキテーヌ公のような諸侯が大きな力を握っていました。
そして、その諸侯たちもまた、いつ臣下が寝返るかわからない不安定な状況に置かれていたのです。
そこで、アリエノールも幼い頃から父ギヨーム10世と共に、領地を巡る諸問題を学ばねばなりませんでした。そして彼女が8歳の時、母親と弟が亡くなり、一人娘となったアリエールがアキテーヌの相続人となります。
その後の1137年、ギヨーム10世がこの世を去ります。
祖父ギヨーム9世の代には実にフランス全土の1/3を占めた広大な領土を、若干15歳のアリエノールが正式に継承したのです。
フランス王妃になってはみたものの
うら若きアリエノールが広大な領土を継いだことで、周囲の諸侯たちは彼女との縁談に色めき立ちました。
そこで、彼女の後見人となっていたフランス王ルイ6世は、自身の息子であり、後にルイ7世となる王太子との結婚を決めたのです。王家とアキテーヌ公家にとって、この結婚は互いにとって理想的なものに思われました。
しかし、二人の性格はまるで正反対でした。ルイ7世は修道士のように真面目で厳格な性格であり、一方のアリエノールは自由奔放で陽気な女性でした。こうした違いが、次第に夫婦間に軋轢を生んでいきます。
結婚から10年目の1147年、夫のルイ7世はローマ教皇の呼びかけに応じ、第二回十字軍への参加を決めます。
アリエノールはこの遠征に物見遊山でついて行き、かつて初恋の相手だった伯父とエルサレムで会見しました。二人は親密な関係を見たルイ7世は不快感を募らせます。
さらに、アリエノールが軍事作戦に口出しして混乱を招いた結果、なんと伯父は戦死してしまったのです。
遠征の失敗により、二人は気まずい雰囲気のまま帰国します。
表面上は国王夫妻としての体面を保ち続けましたが、その間に生じた溝は、次第に埋めがたいものとなっていったのです。
王妃の座に未練無し
ある時、アキテーヌ北方の有力諸侯であるアンジュー伯ジョフロアが、息子アンリを伴いフランス宮廷に表敬訪問しました。
その後もアンリは、臣従契約を結ぶために何度も宮廷を訪れますが、この往来を通じてアリエノールとアンリの仲は急速に親密になっていきます。
ちょうどその頃、イングランドが無政府状態に陥っており、アンリはその混乱を収拾するため、遠征の支援をアリエノールに求めました。これに対してアリエノールは、「もし、夫ルイ7世から解放されるならば、喜んで支援をする」と告げたのです。
温厚な性格で知られたルイ7世も、この言葉を耳にした時ばかりは堪忍袋の緒が切れてしまいました。
そして1152年、二人は形式上の近親婚を理由に離婚してしまうのです。
フランス王妃から一転、イングランド王妃に
ルイ7世との離婚からわずか2ヶ月後、アリエノールはアンジュー伯を継いでいたアンリと再婚を果たしました。離婚後、彼女のもとには各地から求婚の申し出が殺到しましたが、すべてを断った末の再婚劇でした。
この結婚により、アンリの支配領域は北のノルマンディーから南のガスコーニュまで広がり、実にフランスの西半分全域に至ったのです。
前夫ルイ7世が、この事にいら立ちを覚えたことは想像に難くありません。
さらに、再婚前の1151年にはアンリの父ジョフロアが、再婚後の1154年にはイングランド王スティーブンが相次いで世を去ったことで、1154年にアンリはヘンリー2世としてイングランド王に即位しました。
というのも、先のイングランド王ヘンリー1世の時、唯一の嫡男が事故死してしまったため、神聖ローマ皇帝ハイリンヒ5世に嫁いでいた娘マチルダを呼び戻し、代わりに結婚させたのが、アンリの父ジョフロアだったのです。
しかし、マチルダが王位を継ぐことには国内で反発があり、彼女の従兄スティーブンが王位に就くことになりました。その後、ジョフロアとスティーブンが相次いで亡くなり、アンリがイングランド王位を継承することとなったのです。
こうして、アリエノールはフランス王妃に続き、イングランド王妃となるという異例の人生を歩むことになりました。
軟禁生活を経て
夫・ヘンリー2世が治める広大な領土は、現在のイギリスから南フランスにまで及び、当時「アンジュー帝国」と呼ばれるほどの規模に達していました。
アリエノールは、前夫ルイ7世との間に2人の娘をもうけていましたが、再婚後はさらに5人の息子(長男は夭折)と3人の娘に恵まれます。
望む相手と再婚し、多くの子どもと莫大な富を手に入れたアリエノールでしたが、やがて子どもたちの相続問題をめぐって夫ヘンリー2世と対立するようになります。
この対立の末、1174年から15年もの間、アリエノールは夫により軟禁されることとなりました。
しかし、軟禁状態にあっても彼女の自由な精神は失われませんでした。
ヘンリー2世が亡くなり、軟禁が解かれると、アリエノールは三男リチャード(後の「獅子心王」)の即位を支え、彼とナヴァラ王の娘ベレンガリアとの結婚に尽力します。
その結果、リチャードとベレンガリアは結婚しましたが、これによりリチャードとフランス王フィリップ2世の娘との婚約が破棄され、英仏関係の溝が一層深まることになったのです。
最終的に、アリエノールは82歳という当時としては非常に長い人生を終えます。
彼女の奔放さと波乱に満ちた人生は、、後の百年戦争に至るまで、ヨーロッパの歴史に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
参考:戦う女性たちの世界史/関 眞興(著)
文 / 草の実堂編集部
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