オマイラ・サンチェスという少女をご存知だろうか。
彼女は1986年の「ワールド・プレス・フォト・オブ・ザ・イヤー」に選ばれた「世界で最も悲しい写真」の被写体になった少女であり、既にこの世にはいない。
オマイラは1985年11月16日に、コロンビアで起きたネバド・デル・ルイス火山の噴火による災害「アルメロの悲劇」に巻き込まれ、わずか13歳で命を落としたのだ。
オマイラが被写体となった写真は、フォトジャーナリストのフランク・フルニエが、彼女の死の直前の様子を撮影した写真である。
今回は「正確な知識の不足と情報伝達の不備による世界最悪の人災」の1つと呼ばれるアルメロの悲劇の、最も有名な被害者といわれるオマイラ・サンチェスの身に降りかかった悲劇について触れていく。
目次
ネバド・デル・ルイス火山の大噴火「アルメロの悲劇とは」
コロンビア・カルダス県のアンデス山脈中にある活火山ネバド・デル・ルイス火山は、1984年11月に約140年ぶりの噴火活動を開始した。
翌1985年9月11日には大きな水蒸気爆発により雪と火山噴出物による泥流「ラハール」が発生し、火山の西側斜面を約27km流下した。西側にはマニサレスという大都市があったが、水系が異なることが影響して幸いにもこの都市が被害を受けることはなかった。
翌月10月7日にコロンビア国立地質鉱山研究所は、アメリカの専門家の指導の下でハザードマップを作成及び公表したが、この時は噴火が一時的に沈静化していたことからほとんど評価されることはなかった。
アメリカ地質調査所は火山性地震の専門家をコロンビアに派遣しようとしたが、同時期にコロンビア最高裁占拠事件が起きてしまい、この影響で派遣は中止された。
それからさらに1ヶ月が過ぎた11月13日の15時過ぎに、本格的な噴火が起きた。
噴火は21時ごろに最高潮に達し、噴火の規模は「やや大規模」程度の威力だったが、この時発生した火砕流で大量の雪や氷が溶けだし、火山の東側斜面に大量のラハールが発生し、最大幅50mの泥流が2時間半のうちに100km以上の距離を流下して、火山の東側の麓にある都市アルメロを直撃したのだ。
アルメロの被害は甚大で、総人口の約4分の3にあたる21,000人もの死亡者を出した。
最終的にネバド・デル・ルイス火山の噴火によるアルメロの被害は死者23,000人、負傷者5,000人、損壊家屋は5,000棟にのぼり、20世紀の火山噴火による災害では上位から2番目の被害者数となった。
生還者によれば、火山の再噴火の可能性などの警告は行われていたが、以前から偽の情報がよく流れていたため人々は真剣に受け止めていなかった。
さらには市民のパニックを恐れた市長がラジオで「噴火はしない」と放送し続けていたため、ちょうどその日に行われる祭事のために多くの住民が集まっていたことも、被害を大きくした原因であったとされている。
オマイラ・サンチェスを襲った悲劇
ネバド・デル・ルイス火山の東側斜面を流下したラハールは、高さ40mもの泥の津波となってアルメロの街を襲った。
街の大半は泥に吞み込まれ、両親と兄、叔母とともにアルメロにあった家で暮らしていたオマイラは、崩壊した自宅のコンクリートや破片の下に閉じ込められてしまった。
まもなく救助隊がたどりついてオマイラを救助しようとしたが、その過程でオマイラの足が、崩れた屋根の下敷きになっていることに気付いた。
救助者はオマイラの周辺を埋め尽くしていたタイルと木材を1日のうちに取り除き、彼女を瓦礫から引き抜こうとしたが、引き抜く過程でどうしてもオマイラの足を骨折させてしまうことがわかった。
救助者がオマイラの手や体を引っ張る度に、オマイラの周りには濁った水が溜まってしまう。オマイラから手を離すと溺れてしまう可能性があったため、救助者はオマイラの身体を浮かせるために、その周りにタイヤを置いた。
オマイラの足を水中の瓦礫の中から引き抜くために投入されたダイバーは、泥水の中に潜った時、衝撃的な光景を目の当たりにした。
オマイラの足はレンガとドアの下に引っかかっており、彼女の足先は既に亡くなった叔母の遺体の腕に、しっかりと握られていたのだ。
自らの死を間近に感じながらも救助隊を気遣ったオマイラ
※オマイラの動画と画像
非常に困難な状況ではあったが、救助隊は目の前でまだ生きているオマイラを助けるために様々な策を練った。
オマイラも首まで泥水につかり、足と腰を瓦礫に挟まれた極限の状態にありながら、冷静さを失うことはなかった。
オマイラは救助を待つ状態のまま、救助ボランティアに参加していたジャーナリストのヘルマン・サンタ・マリア・バラガンからインタビューを受けた。
歌が好きだというオマイラのために、救助隊は歌を歌いながら救助作業を続けた。その間、オマイラは甘いものを欲しがったり、ソーダを飲んだり、時折怖がって泣き、神に祈りを捧げたりしていた。
被災から3日目の夜に、オマイラは幻覚を見始めて「学校に遅刻したくない」とうわ言を言い始め、数学のテストについて話し出した。
オマイラの目は充血で赤くなり、顔は腫れ、手は青白くなっていった。自らの死を悟ったオマイラは、健気にも救助隊員にこう告げた。
「おじさんたちも疲れたでしょう。少し休んでちょうだい」と。
周囲は流入する泥と水で泥沼と化してしまって重機を搬入することもできず、水位を下げるためのポンプが現場に到着した頃にはすでにオマイラは瀕死の状態だった。さらにオマイラの足は水底にひざまずいているような形で曲がっていたため、足を切断せずに救助することは不可能だった。
救助隊と現場に駆け付けた医師の間で議論が交わされ、医療器具が不足した状態でオマイラの足を無理矢理切断して救助しても助かる見込みは少なく、医師はこのまま安楽死させる方が人道的であるという結論を出した。
そして災害発生から3日後の11月16日午前10時5分頃、救助開始から約60時間後に、オマイラは壊疽あるいは低体温症によって、わずか13年の人生を終えたのだ。
オマイラの家族とアルメロのその後
噴火発生当時、出張でアルメロを離れていたオマイラの母は、取材しにきたマスコミに対して「恐ろしいことですが、私たちは生きることを考えなければなりません。私は指を失っただけの息子のために生きます。」と語った。
オマイラの父と叔母は亡くなったが、兄は手を負傷したものの生きて母と再会することができた。
オマイラの死は彼女の人生最期の写真や映像を通じて、コロンビアだけでなく世界中に大きな衝撃を与えた。
3日間にも及んだ救助活動の一部始終は全世界に報道され、コロンビア政府はオマイラの死に対して国民に3日間喪に服すよう呼びかけた。
長年に渡る内戦の影響により当時のコロンビアの防災体制は不十分で、そのことがオマイラを始めとする多くのアルメロ市民の命が失われた一因だとして政府に抗議の声が集まったが、コロンビアの国防大臣は「コロンビアはそのような装備をそなえていない」「未開発国だ」と述べるに留まった。
現在アルメロの市街地は北方約8kmの位置に移転しており、旧市街地は再建されずに墓地として保全されていて、今でも多くの遺体が泥の下に眠っているという。
災害による教訓をどう生かすか
オマイラが命を落としたアルメロの悲劇は、遠い海の向こうのコロンビアで起きたことだが、災害による悲惨な出来事は決して他人事ではない。
災害大国といわれる日本でも、これまで地震や噴火、洪水などで数多くの被害者が出ている。その中には天災の直接的な影響に加え、人災の影響で被害者数が倍増した災害もある。
アルメロの悲劇は、数々の人災が重なったことで起きてしまった未曽有の大災害だ。情報が市民に正しく伝達され、再噴火の危険性と早めの避難の必要性を政府や市政が住民に呼びかけていれば、ここまで被害者数が多くなる事態を避けられたかもしれない。
さらに救助物資や医療器具が足りていれば、オマイラのような救助が成功すれば生き延びれる可能性があった人々を、もっと助けられたのかもしれない。
しかしどれだけもしもの話をしても、過去が変わってくれることはない。過去の災害による結果をどう受け止め、どう教訓にしていくかを、今を生きる人々は考えなければならないのだ。
オマイラ・サンチェスの身に降りかかったような悲劇を、より少なくしていくために。
参考 :
ヘルマン・サンタ・マリア・バラガン(著)『No Morirás. Andres Bollo』
公益社団法人 日本地震学会『地震学の今を問う』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
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