金日成(キム・イルソン)により確立された「個人崇拝」が今も続く北朝鮮。
なぜ、そのようなことになったのか。
拉致やテロが繰り返されるのは誰の指示によるものなのか。
そして、世界の平和を脅かす軍事優先政策どのようにして始まったのか。
いまだ厚いベールに隠された北朝鮮の謎に迫る。
徹底した秘密主義
ソビエトの思惑により、金日成を指導者として建国された北朝鮮は、やがてソビエトの制御が利かない暴走を見せ始めた。そして、そうした道を選択した金日成の傍らには息子の金正日(キム・ジョンイル)がいて、早くから権力への階段を昇りはじめている。
[※金正日]
しかし、どのように台頭してきたのか、その過程は一切不明のままだ。
近年になり、旧東ドイツが残した北朝鮮における権力継承についての機密文書が発見され、徐々に事実が明らかになってきた。
1970年代、北朝鮮は他の社会主義国と友好的な関係を結んでいたが、建国後にいち早く国交を結んだのが東ドイツである。その東ドイツの外交官ですら、北朝鮮の内部事情を知るのは困難であった。北朝鮮は一切の情報を秘密にしていたため、平壌駐在の旧社会主義国外交官は互いに少ない情報を共有するしかなかったのだ。
しかし、金日成が政府の重要なポストに親族を就けていることはあることを意味していた。
後継者候補
東ドイツの機密文書には、金正日についてほとんど触れられていない。当時、彼は後継者候補として名前が挙がっていなかったほどだ。社会主義国家では、親子での権力継承はタブーだと考えられていたからである。
しかし、金日成は金正日が20代のころから極秘裏に軍の視察などに随行させていた。北朝鮮で若い金正日と接し、後に国外に亡命した人物たちの証言によれば、金正日は若くして「後継者」を明言し、父の秘書のような働きをしていたという。しかし、北朝鮮国内でさえ、権力を世襲するなど誰も考えていなかった。
1973年、初めて機密文書に金正日の名が記された。彼が党の重要ポストに就いたからだ。30代前半のことである。そして、同時代に金日成への忠誠のあらわれとして本格的に強化されたのが「マスゲーム」である。厳しい訓練によって一糸乱れぬ動きが完成した。
これにより、金日成に対する個人崇拝はさらに強まる。
党中央
【※万寿台創作社が制作した金日成と金正日の立像】
70年代半ば、金正日は「組織指導部」の責任者に抜擢される。このころから、本格的な世襲の準備が始まった。
1974年、「党中央」という言葉が用いられるようになり、その後、党中央の名で重要な指示が出されるようになる。しかし、党中央とは金正日個人を指す言葉であった。このような表現をしたのは、他の社会主義国に対して世襲を悟らせないためである。息子への権力継承は封建制を意味するからだ。
同時期に党幹部に向けた発言のなかに「党中央の意思は、首領様(金日成)の意思であり、党中央の指導は、首領様の指導を実現するものだ」とあり、実質的に後継者として活動をすることを宣言したのである。
社会主義各国が後継者と目していた金日成の弟「キム・ヨンジュ」は失脚し、金正日が父の支配力を受け継ぐこととなった。そして、経済政策の一環として生産性向上のため、若い職員が各地の職場に監視員として派遣される。およそ20万の若者たちが、事実上、金正日親衛隊として活動した。
こうして、自らの地位を固めるとともに、金正日は建国以来の悲願である「祖国統一」に乗り出す。
対南工作
1974年、韓国のパク・チョンヒ大統領狙撃事件を始めとしたテロ事件は、韓国で革命を起し、南北統一を狙う「対南工作」として頻繁に起きていた。工作員の手帳には「党中央」の文字が記され、これらが金正日の指示であることが分かる。
しかし、韓国が警備を強化したことで直接工作員を送ることが難しくなると、金正日は日本を経由して韓国に工作員を送り込むように指示をする。1978年秋から、当時は原因不明の日本人の失踪が相次ぐようになったが、これも北朝鮮の工作員が日本人に成りすまして韓国に潜入するため、日本語の教師を求めて拉致したものだと見られている。
そして、それを指示したのは言うまでもない。当時、すべての活動を指揮していたのは金正日だった。
1980年、平壌で第6回党大会が行われ、金正日が公の場に始めて姿を現す。だが、ここで彼が公式に後継者に指名されることはなかった。この党大会で後継者に指名されると見ていた東側各国は肩透かしを食らうことになる。
韓国との経済格差
このころ、韓国と北朝鮮の経済格差は大きくなっていた。
そのため、北朝鮮では党中央委員会書記となった金正日のもと、80年代に先進国入りするという目標が掲げられる。外国に依存せず、自国ですべてを達成する「主体思想」が強調され、大量の労働力が投入された。平壌には続々と新しい施設が完成する。
だが、主体思想というイデオロギーによって行われた政策は、北朝鮮の経済を好転させることはなかった。それでも、1万人を動員して高さ170mの主体(チュチェ)思想塔を建設するなど、自己中心的な政策が変わることはない。
1983年、ソウルオリンピックの開催が決定した韓国と北朝鮮の経済格差は、およそ3倍まで広がっていた。そのことに焦りを募らせたのか、金正日のテロ工作も激しくなる一方、85年を境に金日成は息子に権力の座を譲ったとの証言もある。
ソウルオリンピックの影響
【※ソウルオリンピック】
やがて、大韓航空機爆破事件が起きた。オリンピック開催を翌年に控えた1987年のことだ。
実行犯の金賢姫(キム・ヒョンヒ)は、金正日の指示により、オリンピックの妨害を狙う目的があったと供述している。しかし、ソウルオリンピックではソ連や東ドイツなど、多くの社会主義国が参加し、その後、国交を樹立。オリンピックの成功によって、北朝鮮に対する韓国の優位は決定的なものとなった。
そして1989年、ベルリンの壁が崩壊。これにより冷戦は終結した。
ルーマニアではチャウシェスク政権による独裁に国民の不満が爆発。全国規模の暴動がルーマニア軍も動かす革命となって、チャウシェスク元大統領が公開処刑された。だが、このニュースは北朝鮮では伝えられなかった。金正日がチャウシェスクのように軍による革命を恐れたためだともいわれる。そこで軍内部での粛清が始まり、その一方で金正日と北朝鮮は、自国の軍事最優先の道を歩み始めたのだった。
最後に
金正日は、公式に後継者を名乗らないまま、そのポストに就いていた。1994年の父の死後、朝鮮労働党中央委員会総書記を務めることになり、外交的にも北朝鮮の最高権力者であることを知らしめる。
だが、金正日の世代になってから、「核」「ミサイル」開発が始まったことで北朝鮮は世界から孤立する道を歩むようになるのだ。
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