アインシュタインの書簡
「マンハッタン計画」は第二次世界大戦下のアメリカにおいて実施された、原子爆弾を開発する目的の一大プロジェクトでした。
この「マンハッタン計画」のきっかけとなったのが、アメリカに亡命していたユダヤ人物理学者のレオ・シラードらが、同様に亡命していた相対性理論で世界的に著名だったアインシュタインの名を借りて、1939年に時のアメリカ大統領ルーズベルトに提言を行ったことでした。
このときの提言において核連鎖反応が軍事兵器に応用される可能性や、ナチス・ドイツがそれを先に開発する恐れがあることが示唆されていました。
ルーズベルトはシラードの提言を検討させたものの、当初はさほど注意を払ってはいなかったと言われています。
それが変化したのは、1939年6月にイギリスの物理学者によってウランを用いた原子爆弾開発の具体性が報告されたためでした。
日本の国家予算の33年分に相当
こうして1942年10月にルーズベルトは原子爆弾の開発プロジェクトを承認し、「マンハッタン計画」が実行に移されることになりました。
以降延べ5万人以上とも言われる科学者達が動員され、合計総額約20億ドル(7,300億円)の巨額の資金がつぎ込まれました。
この金額は当時1940年における日本の国家予算の一般会計は約60億円であり、1945年でも約220億円だったことを考えると、1945年対比で日本の約33年分にも相当する途方もない金額のプロジェクトでした。
研究の中心施設となったのは、ニューメキシコ州に新しく設けられたロスアラモス研究所でした。
ロスアラモス研究所
ロスアラモス研究所所長として「マンハッタン計画」を推進した責任者が、ニューヨーク生まれのユダヤ人であったロバート・オッペンハイマーです。
オッペンハイマーは日本への原子爆弾の使用を強く主張した人物で、当初から原子爆弾の目標について日本のみを対象にしており、ナチス・ドイツに対する使用に言及したことはありませんでした。
オッペンハイマーは、日本に対する原子爆弾の使用に異を唱えた科学者らを排除し、日本に向けた使用を既成事実化し、1945年7月についに原子爆弾の初実験に成功すると狂喜したとも伝えられています。
但し、第二次世界大戦後には更に威力を増した水爆の開発には反対の立場を表明し、1945年10月にはロスアラモス研究所の所長を退きました。
フォン・ノイマンの頭脳
原子爆弾の製造を具体化した科学者もハンガリー系ユダヤ人のフォン・ノイマンでした。
ノイマンは今日のコンピュータの基本原理を考案した人物としても著名ですが、「マンハッタン計画」には顧問として参加していました。
そこでのノイマンは類まれな頭脳を駆使して、約10ケ月の期間で原子爆弾が物理的に開発可能な事を計算で導いたとされています。
また原子爆弾の爆発のタイミングは空中で行うことで更にその威力が増すことも計算した人物でした。
米ソ対立の切り札
近年の研究によれば、アメリカ政府が日本に対する原子爆弾の使用を決定した時期は1943年5月とも言われており、原子爆弾の投入は以後の世界における原子力の開発で、アメリカがソ連に対してイニシアティブを保有するために必須と考えていたことが指摘されています。
第二次世界大戦においてアメリカとソ連は同じ連合国ではありつつも、以後の世界に対する影響力を巡って既に対立する構造が浮き彫りになってきていました。
ソ連はドイツの首都ベルリンを陥落させ、東欧の大半を支配する勢力となっており、アメリカはこの状況を覆すものとして圧倒的な破壊力を持つ原子爆弾の威力を見せつける必要が生じていたものと言えました。
参考文献 : 原子爆弾―その理論と歴史
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