フランス料理とは
世界の国々の料理で、最も高級なイメージなのはフランス料理であろう。
ほとんどの国の料理は、庶民向けの料理を中心として知名度が広がっていったが、フランス料理に関しては庶民向けの料理はすぐには思い浮かばない。
フランス料理で頭に浮かぶものといえば、贅沢なコース料理の数々である。
なぜフランス料理が高級感が強くなってしまったのかというと、メニューの元になったものが貴族料理だからである。
とても庶民には手が届かない高級料理であったが、それを庶民がギリギリ手が届くところまで持ってきたのが、フランス料理の父と称される「オーギュスト・エスコフィエ」である。
彼は、大掛かりで手のかかる装飾を施していた盛り付けをできるだけ排除し、料理を一品ずつ提供する方式に変えていった。
更にそれまでは厨房ごとに個別に料理を仕上げていたが、調理作業を各部門にふり分けて組み立てていく方式に変更していった。
当時は1度に全ての料理を提供する方式だったが、「コースメニュー」を導入することにより、現代のフランス料理の形式を作ったのである。
エスコフィエの手法により、それまで大変な労力を必要としたシェフの労働環境は格段に改善した。
それと同時に、フランス料理は確固たる地位を保持しつつ、世界中に広がっていくことになる。
エスコフィエの生い立ち
一般的にシェフは、地位の高さに応じて「コック帽の高さ」が増すことは有名である。
そのようになった理由は、エスコフィエの身長だったと言われている。
西洋人男性は身長が高い人が多いが、エスコフィエの身長は160cmなかったのである。
そのために、従来のコック帽より30cm程高い帽子をかぶって仕事をしていたという。
このことがきっかけで、地位が高い人ほどコック帽の高さが増すことになったと云われている。
1846年、ニース郊外の村のヴィルヌーヴ・ルーベで生まれたエスコフィエは、13歳の時に叔父が経営するレストランで見習いを始めた。
この頃は、日本では江戸時代末期にあたる。
1865年、19歳の時に叔父のレストランからパリのレストラン「ル・プティー・ムーラン・ルージュ」に転職する。
その後1870年に、普仏戦争が勃発する。
エスコフィエはフランス軍に召集されて、参謀本部第二部付きのシェフとなる。
この軍隊でシェフをしていた期間に、エスコフィエは「不十分な素材をいかに上手に調理するか」という技術を身につけたのだ。
料理人としてのエスコフィエ
その後の1878年には、自身のレストラン「フザン・ドレ」の経営を開始する。
1880年に、デルフィーヌ・ダフィと結婚。
1884年にモンテカルロに移り、エスコフィエはグランド・ホテルの料理長に就任することになる。
比較的に暇になる夏季にはホテル・ナショナルで厨房を任されていたが、そこでフランスの実業家・セザール・リッツと出会う。
2人はそこで意気投合して協力を誓い、その後の1890年、「ロンドンで最も有名なホテル」と呼ばれたサヴォイ・ホテルで2人は再開する。
サヴォイ・ホテルでは、セザール・リッツがホテル支配人となり、エスコフィエが料理長となった。
このサヴォイ・ホテルでの料理長時に、エスコフィエが作った有名なデザートが「ピーチ・メルバ」である。
オペラ「ローエングリン」に出演していたオペラ歌手・ネリー・メルバのために作ったこの一品は、彼女を感動させただけでなく、世界中にエスコフィエの名を知らしめた。
他にも食通としても知られているイタリアの作曲家・ロッシーニを記念して名付けられた「牛ヒレ肉のロッシーニ風」も、エスコフィエの作品である。
だが輝かしい業績とは裏腹に、こんな事件も起こった。
エスコフィエが定員外の助手を手数料を取って雇い入れていたことが不祥事となり、エスコフィエとリッツは共にサヴォイ・ホテルを去ったのである。
しかしエスコフィエとリッツはその後の1898年、パリにホテル・リッツをオープンさせる。翌年1899年にはロンドンにカールトン・ホテルをオープンし、成功を収めたのである。
エスコフィエはリッツの死後も、1919年までリッツ・ロンドンやカールトン・ホテルの運営に携わっている。
エスコフィエの数々の業績
エスコフィエの業績の中でもトップレベルに偉大とされるものは、1903年に初の主著として出版された「料理の手引き(Le Guide Culinaire)」だろう。
これは5000種類以上の料理のレシピが収録されている、800ページにもわたる本である。
過去の伝統に根ざしつつも新しい時代にふさわしい料理として手直しされているこの本は、まさにフランス料理の教科書であり、出版から100年以上経った今でもこの本から学んでいる人が世界中にいるのである。
1920年にレジオンドヌール勲章を受章。
1928年には同勲章のオフィシエ(将校)を受章している。
1935年に、エスコフィエは88歳で永眠した。
エスコフィエは、1906年にドイツのハンブルク=アメリカ汽船が運航している客船「アメリカ号」の、船内レストラン顧問となっている。
その「アメリカ号」の処女航海の前日に訪れたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、エスコフィエの料理を堪能しこう賛辞した。
「私はドイツ皇帝だが、あなたは料理の皇帝だ」
参考 : 日本エスコフィエ協会
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