アメコミヒーローの代名詞で、後の作品にも強い影響を与えたスーパーマン。
赤いマントを羽織り、汽車よりも早く高いビルも楽々飛び越える姿は、誕生から80年以上経った今も愛されている。
世界で最も有名なヒーローだが、意外と知られていない事実もある。
今回は、スーパーマンについて深く掘り下げてみた。
目次
アメリカに本物の「スーパーマンの家」がある
オハイオ州クリーブランドにある住宅地で、一際目立つ「S」のロゴマークが飾られている家がある。この家は「House of Superman」と呼ばれており、かつて原作者ジェリー・シーゲルが住んでいた。
ジェリー・シーゲルは自宅の寝室で新たなスーパーヒーローを構想し、高校の親友であるジョー・シャスターと手を組み、スーパーマンを生み出したのである。
スーパーマンを巡る泥沼裁判
スーパーマンの原作者は、前述したようにジェリー・シーゲルとジョー・シャスターである。
しかし、なんと2人はスーパーマンの著作権は持っていなかった。なぜなら、ディテクティブ・コミック社(現在のDC社)に、権利を買われてしまったからである。
2人はスーパーマンを生み出し、数多くの出版社に売り込みをかけた。ところが関心を持ってくれた出版社はゼロだった。唯一スーパーマンに興味を持った会社が、ディテクティブ・コミックだった。
そして2人は130ドルという超激安価格でスーパーマンの権利を譲渡してしまったのである。何が何でも出版させたかった気持ちを考慮すれば、他に選択肢はなかったのだろう。ところが、スーパーマンは想像以上の大ヒットを記録した。権利は会社側にあったため、作者の財布が潤うことはなかった。
当然納得できない原作者2人は、1946年に会社相手に裁判を決行した。1975年には著名なコミック作家たちも加わったキャンペーンを受けて、DCは2人に毎年3万5000ドルの終身年金を支払うこととなり、全てのスーパーマン派生作品に2人の名前を表記することを認めた。
裁判は作者が亡くなった後も続けられ、泥沼化へ…。そして2008年になり、ようやく「スーパーマンの著作権は“一応“作者にある」との判決が下された。
しかし残念ながら、作者単独での著作権獲得には至らなかった。
だが、長い年月をかけてスーパーマンが作者の元へ帰ることができたのは、喜ばしいニュースと言えるだろう。
映画「スーパーマン」で主役を演じていたかもしれない超大物俳優
1978年(日本では1979年)に公開された映画「スーパーマン」は、ジーン・ハックマンやマーロン・ブランドといった超大物スターの出演もあり、大ヒットとなった。
映画制作にあたり困難を極めたのは、スーパーマン役選びだった。制作陣はハリウッド中から俳優を探し回ったが、適役はなかなか見つからなかった。ロバート・レッドフォードやポール・ニューマン等の候補も挙がったが、実現に至らなかった。
候補者の中には、アーノルド・シュワルツネッガーの名前もあったが、マーロン・ブランドが「待った」をかけたために実現しなかったという。
最終的には、新人俳優だったクリストファー・リーヴが採用された。
彼は役を演じるために細身だった体をビルドアップし、最高のスーパーマンを演じたのである。
「スーパーマンの呪い」とは
「スーパーマンに携わった者には呪いがかかる」というジンクスがある。
これは都市伝説の範疇でしかないが、実際に関係者が次々と不幸に遭っているのは事実であり、俳優の何人かは数百万ドルの出演料を提示されても、このジンクスを恐れて出演を断っている。
「スーパーマンの呪い」として最も有名な例は、クリストファー・リーヴとジョージ・リーヴスだろう。
2人は映像作品で共にスーパーマンを演じてきたが、クリストファー・リーヴは事故で半身不随になった。ジョージ・リーヴスは結婚式の数日前にショットガンで自殺している、(他殺説もある)
また、俳優だけでなく、映像制作に携わったスタッフたちも、病気や事故、倒産など不幸に見舞われている。
しかし「スーパーマンの呪い」については疑問点もある。そもそも何らかの事故で大怪我をしたり、病気で命を落としてしまった映画関係者は大勢いる。
2023年1月に起こった、MCU常連俳優のジェレミー・レナーの事故は記憶に新しいところである。「ブラック・パンサー」で主演を務めたチャドウィック・ボーズマンは、ガンで43歳の短い生涯を終えた。マーベルドラマ「ムーンナイト」で主演を務めたギャスパー・ウリエルは、スキー事故により37歳で死去している。
「スーパーマンの呪い」が実在しているのなら、マーベル映画関係者に降りかかった事故や病気も「マーベルの呪い」として騒がれても不思議ではない。ところがマーベルに関しては、呪いの噂は確認できなかった。
いくつかの不幸が続いたことは事実であるが「スーパーマンの呪い」として片付けるのは、些か安直ともいえる。
「スーパーマン」のアニメに携わったのは超大物日本人クリエイター
1996年~2000年にアメリカで放送されたアニメ「Superman :The Animated Series」は、日本ではカートゥン・ネットワークで放送されていたため、目にしたことがある人も多いだろう。
原則アメリカのアニメになるため、スタッフの多くはアメリカ人が担当している。ところが、スタッフの中には日本人の姿もある。
八崎健二・増田敏彦・矢野雄一郎・青山浩行は「スーパーマン」の功績が認められ、エミー賞を獲得した。
エミー賞とは、アメリカで制作されたテレビ番組に贈られる権威のある賞のことである。過去には「ボヘミアン・ラプソディ」のラミ・マレック、「刑事コロンボ」のピーター・フォークなどが受賞している。
「スーパーマン」のアニメを手掛けた日本人には、他にも「ルパン三世 カリオストロの城」を手掛けた友永和秀の姿もある。
アメリカが誇るスーパーヒーロー作品に日本人が携わっているのは、何とも感慨深いものがある。
参考 : Supermanturns75,他
『スーパーマン』の初代アニメーションを手がけたマックス・フライシャーもポパイやベティ・ブープを生んだその功績とは裏腹に自らの著作権を映画会社に奪われて長年クレジットからも消されていたから、当時のアメリカにおいて著作権の有無は天国と地獄の分かれ目だったといえる。